一、はじめに
虚子とその一門は、昭和5年8月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続き、その回数はちょうど百を数えた。
虚子一行は、昭和5年10月8日の第3回と昭和12年6月6日の第82回に手賀沼を訪れている。武蔵野探勝のなかで同じ場所で2度吟行を行っているのは手賀沼のみである。
さて、第3回の手賀沼吟行の記録は、池内たけしによるものであるが、この記述には幾つかの不明点がある。それらは、再訪の第八十二回の大橋越央子の記録によって解き明かされる。
こうした点を中心に紹介したい。
二、第三回「手賀沼」
池内たけしは記す。
『上野から常磐線の汽車に乗つて一時間ほど行くと我孫子駅に着きます。此処から手賀沼の畔りまで五六町ばかり歩けばよろしいのです。道の半ばも行くと沼が蘆叢の向ふに見えて来ます。(略)沼辺に小料理屋がありました。(略)私達は十月八日の午後不意にこの小料理屋あびこ園を襲ひました。』
このときの句会場の小料理屋「あびこ園」は、残念ながら現存していない。しかし、『五六町ばかり歩けばよろしいのです。』という記述から、虚子一行が駅から沼へまっすぐ向かったであろうことと、この「あびこ園」が現在の手賀沼公園前の交差点先付近にあったことが推察される。
むしろここで不思議なのは、手賀沼という遠方での吟行にもかかわらず『十月八日の午後』というあまりにものんびりした吟行時間である。
さらに、たけしは『私達よりずつと遅れて到着した一行がありました。その人々は遅れ走せに暮れかかつた沼の畔りに佇んで句作に余念がありませんでした。』と記述している。
一行の到着が午後であったにもかかわらず、さらに遅れておそらく夕刻に到着した一行があったという。
武蔵野探勝を読むと、当時の吟行は、よく言えばおおらか、悪く言えばいい加減という印象を持つ。そもそも当時は公営、民営問わず貸出可能な集会場など存在していない。
句会場は、知り合いの家を借りるか、その場その場で料理屋や農家などと交渉して決めるしかない。したがって、きっちりした計画が立てられるはずもない。
また、どういう訳か、全員が揃わないうちにタクシーに乗ってどんどん出発してしまったりするケースも見受けられる。それでも最後にはだいたい全員が揃い、辻褄が合うところが面白い。
そういう現代とは異なる「おおらかさ」があったにせよ、夕刻の到着は遅すぎはしまいか。そしてこのさらに遅れて来た一行が誰だったのかが非常に気になるところである。
これらの答えは第82回の越央子が明かしてくれる。
三、第八十二回「さみだるゝ沼」
大橋越央子は記す。
『沼べりの蘆の中に一軒の小料理屋がある。図らずも思ひは五年前に遡る。昭和七年の秋十月、第三回の武蔵野探勝で立待月を見る会がこの手賀沼で催されたことがあつた。』
ここでようやく第三回の武蔵野探勝会が立待月を見る会だったことが判明する。つまりあえて遅いスタートにしたのである。ちなみに『五年前』は『七年前』の、『昭和七年』は『昭和五年』の誤りである。
『当時探勝会は此頃と違つて必ず第一日曜日といふ訳ではなく、その日もウヰークデーに催されたので、勤めの身の僕等は、午後四時の過ぐるを待つて風生、京童、奈王、夏山等の諸君と上野駅に駆け付けたこと、そして夕方暮れかかつた手賀沼の畔へ辿りつき、辛うじて立待月の出に間に合つたこと』
この記述により遅れた一行が富安風生、山本京童、片岡奈王、松藤夏山、そして越央子の五人であったことや遅れた理由が判明する。
第3回武蔵野探勝が行われた10月8日は、水曜日であった。
記録者の越央子も風生、京童、夏山も逓信省の官僚である。奈王も逓信省かは確認できていないが、官僚仲間である。
『今は故人となつた夏山京童の両君が健在で(略)今更の如く思ひ出の種は尽きない。』
2度の手賀沼吟行の間には7年の歳月が流れており、武蔵野探勝の開始から終結までの参加者の変遷についてもいずれは調べたい。
四、天神坂のこと
『汽車は今濠雨の中を、日暮里駅を出て我孫子に向かつて走つてゐる。(略)昭和十二年六月六日朝のことである。(略)我孫子駅で下車する頃に雨は大体止んだ。道の両側の家には何れも廂に菖蒲を葺いてある。この町では年中行事は凡て一月遅れにやる習慣だといふことである。家並を出はずれた頃から、雨は又夕立気味に沛然として降つて来た。濡れ鼠になつてやつと目的の家ー谷口別邸ーの門をくぐる。この家は我孫子町の一部で天神山といふ。手賀沼をめぐる低い丘陵の一角にある。元軍令部長海軍大将谷口尚真氏の別荘で 以前には柳宗悦氏が前後八年の間、又田中耕太郎氏が三年ばかり、読書に籠つて居られたといふ由緒のあるものである。(略)座敷に掲げぐる額に「三樹荘」と題してある。筆者帰一斎とは嘉納治五郎氏の雅号であるといふ。三樹荘の名は蓋し庭前に鬱然と茂る見事な三株の古木の椎に由来するものと思はれる。』
これは越央子の『さみだるる沼』の書き出しである。
この谷口別邸の所在地は、現在の我孫子市緑一丁目にあり、虚子一行が濡れ鼠になって歩いたことを考え合せれば、やはり別邸にはまっすぐに向かったことだろう。
我孫子駅南口に下車し、駅前通りをまっすぐに進んで国道356号線に出て左折。我孫子緑郵便局の先の交差点を渡り、ひかり幼稚園を目指す。幼稚園の右わきの道を行けば谷口別邸の所在地にでる。
今は、個人の所有であり、庭も非公開となっている。
『昼餉を済ますと、折から小降りになつたを幸ひに、皆別荘を立ち出でて崖の細道を下りて沼畔に出る。』
この『細道』が我孫子に住んだ幾多の文人が愛した「天神坂」である。
僅かの長さではあるが、この樹間の坂道は当時の面影を今でも残している。そして、この坂を降り立った先が第3回「手賀沼」の句会場となった「あびこ園」のあった地であり、手賀沼の畔は目の前である。近年の整備により手賀沼公園内に生涯学習センターも完成した。また、天神坂を降り立ってすぐに左へ進めば、虚子とも交友のあった杉村楚人冠の句碑や志賀直哉邸跡に行き当たる。まさに天神坂は我孫子のもっとも我孫子らしい坂道と言えよう。
9月23日は、「風の道」創刊38周年年次大会が渋谷区で開催されました。
9月21日、千葉県俳句作家協会の秋季吟行会が流山市で開催されました。
『九月三日、残暑の烈しい日であつた。午前九時四十五分上野を発車したが、幹事の蚊杖さんが見えないのでどうしたことかと思つた。金町に下車して、幹事は見えないが今日の先導役である菖蒲園さんが一行中にあつたのでそろそろと目的地へ向ふことになつた。』
『だんだん雨雲が湧き立つて
俳人協会の会報「俳句文学館」9月5日号の「この一冊」のコーナーに、旧知の林誠司さんの著書『俳句再考』が紹介されていました。
千葉県俳句作家協会の「秋の俳句短冊展」の季節となりました。
秋櫻子は記す。『我等は園の北端にある掛茶屋に憩ひつつ、武蔵野の大景に見入つた。』
地図を見ると、百草方面から高幡不動へ下りる道は3本ある。そのうちの一つは湯沢橋から川崎街道の百草団地入口交差点へ下りる道だが、この道は広い道なので虚子の道とは思えない。
『本堂の裏座敷で中食のおべん当を開いて、運ばれた鯉こくに満腹して、思ひ思ひに外に出た。』
青邨は記す。『船の来る間、岸に立つてあたりを眺める。(略)テントを張つたり、腰掛を置いたりして、一寸広い岸になつてゐる、田舎娘がよい帯をしめて、四五人立つてゐる。十五六人の子供等が真黒に焼けてわいわいと騒いで泳いでゐる。「かうして見ると日本人のやうじやないね」「全く土人だね」「これだから日本は水泳が強いんだ」もぐつた子供は藻をがぶつて現れる、まるで河童だ。』
この石塚屋は、『割烹石塚家』『和風レストラン うなぎ以志津香』として、現在も営業している。虚子が武蔵野探勝の中で句会場として使った店が現在も残っていることは非常にうれしい。
さて、虚子一行はどうやって府中に来たであろうか。