武蔵野探勝を歩く78「曽我の里」

一、「曽我の里」 三宅清三郎記

 昭和十二年二月七日、虚子一行は第七八回目の武蔵野探勝として曽我の梅林を訪れた。
 この日、虚子が詠んだ『曽我神社曽我村役場梅の中』の句碑が曽我兄弟の菩提寺である城前寺本堂裏手にある。
 一行は、東京駅を発って国府津に着き、車で曽我梅林へ向った。
『今日の肝煎役であるべき楠窓氏は突如ふたたびの海上勤務被命で遠く南洋航路の洋上にあり、令弟大和田抱甕子氏が楠窓氏に代って何くれとなく一行の世話をせられて(略)』
楠窓は、日本郵船の機関長であったため急きょ洋上勤務となった。そこで弟の大和田抱甕子の出番となったが、実は、もう一人の接待役がいたことが分かっている。それは、当日の句会場の主・加来氏の長女都である。
清三郎の記録には都について何も触れられていないがこういう記述がある。
『梅の花炭火おこりて茶の烟 虚子
(略)蘭花の湯、大粒の金平糖、木瓜酒といふ風変りのおもてなし、ことに金平糖は虚子先生も大変お喜びになった様子だった。
 なつかしの金平糖や梅の宿 水竹居』
こうした接待をしたのが都であった。なおこの中に出て来る木瓜酒とは、加来家で造った草木瓜(シドミ)の果実酒のことである。
さて、この二月七日はもう一つの意味を持った日でもあった。
清三郎は記す。
『外はひしひしと寒い様子に尻込みして、ふたたび出てゆく者は少なかった。(略)碧梧桐初七日をすませて来られた黒の紋付の虚子先生は廻り縁の畳廊下に端座せられて、荘の大玻璃戸越しに早春の寒雨にけぶる梅花村をじっと眺めてうごかれなかった。
梅林の中の庵に我在りと 虚子』
二月一日、腸チフスを患った碧梧桐は敗血症を併発し帰らぬ人となった。虚子は「俳句の五十年」の中の「晩年の碧梧桐」でこう述べている。
『碧梧桐と私は不幸にして違った俳句の道を歩んだともいへますが、一方からいへばそれが俳句界をして華やかならしめた原因であるともいへるのでありまして、又私の生涯におきましても碧梧桐あるが為に、又碧梧桐は私があるが為に、お互ひに華やかな道を歩んで来たともいへるのであります』
ライバルであり親友といううらやましいほどの関係であったことがよく理解できる。

二、太宰治との不思議な縁

平成二一年一二月二六日早朝、一軒の古い空き家が焼失した。小田原市曽我谷津の雄山荘である。この雄山荘ほど数奇な運命を見守ってきた建物はないかも知れない。
この建物が有名になったのは、太宰治の小説「斜陽」の舞台だったからである。
「斜陽」には、『あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく(略)、十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの附いた来客用の洋間が一間』という描写がなされている。
今では「斜陽」には太田静子という原作者がおり、彼女の雄山荘に関わる日記が小説の主要なモチーフだったことが知られている。
静子は太宰の子を産み、太宰は別の愛人と命を断つ。そして、その太宰が生まれた明治四二年から丁度百年目に雄山荘は焼失した。十年近く空き家であり、電気も通っていなかった雄山荘の出火原因は現在もなお不明とされている。
雄山荘は、朝日印刷所創業者の加来金升(かくきんしょう)が、病気療養中の母親のために昭和五年春に建てた。ところが建築中に母親が亡くなってしまったので、友人たちに別荘として貸し出すこととし、「大雄山荘」と名付けた。
太田静子が移り住んだのは昭和一八年一一月のことで、逓信省次官や日本曹達社長を歴任した大和田悌二の斡旋だと言われている。大和田は、「斜陽」の中では「大」の字を取った「和田の叔父さま」のモデルとされている。
実は、大和田は養子先の姓を名乗っているが旧姓は上ノ畑であり、彼の兄は虚子門下の上ノ畑楠窓なのである。静子は、母親の弟にあたる楠窓(純一)たちを「上ノ畑の叔父様」、「大和田の叔父様」と呼んでいた。
さらに、太田静子が葉山に転居した後の昭和三八年秋からは、ホトトギス同人の林周平が雄山荘最後の住人となる。周平は朝鮮鉄道の京城駅助役時代に虚子に師事している。「大雄山荘」の「大」の字を取って「雄山荘」と改名したのも周平である。
虚子が、武蔵野探勝第七八回「曽我の里」で、「大雄山荘」を訪れたのは昭和一二年二月七日のことである。
その句会場が、後に「斜陽の家」として有名になることはもとより、その後も虚子と深い関わりのある人たちが雄山荘に住むことになるなど知る由もなかった。そんな複雑な人間模様と男女の愛憎を見続けてきた雄山荘も今は現存していない。
私(藤井稜雨)が雄山荘を訪ねたのは、梅雨の晴れ間のいささか暑い一日だった。
雄山荘の跡地には雑草が生い茂り、草の中から小振りの石灯籠が無惨に傾いていた。林周平が玄関わきに建てたという虚子直筆の句碑『今の世の曽我村は唯梅白し』は見当たらない。
城前寺の方に伺うと「火災のあと整地をしたのでその際撤去したのでは」と言う。
城前寺の本堂裏の句碑を拝見させていただき、私は下曽我を後にした。

※雄山荘の映像は「小田原デジタルアーカイブ」にある。
※『斜陽』の家 雄山荘物語(東京新聞出版局)林和代著を参考にした。

「武蔵野探勝」との出合ひ

下総日常探勝5

 【西行 鼓ケ滝を聴いて】

二人の男の眼下に大河があった。大河に衣川が流れ込んでいた。
 「曾路、金鶏山が見えるな。あの山だけが往時のままじゃ。あの山だけがこの地の栄枯盛衰を見守ってきたのじゃ。」
 「はい。」曾路はつぶやくように応じた。
「一句なった。」
男は矢立を取り出すと、曾路が見守る中でさらさらと文字を書き始めた。
そこには、「いにしへの栄枯盛衰夏野哉」と書かれていた。
曾路は、目を見張ってため息をついた。
「いい句ですね。」
日が暮れかかっていた。今宵の宿は決まっていない。曾路は眼下を指さした。
「宗匠、あちらに薄煙が見えまする。今宵はあちらに泊めていただきましょう。」
二人は小高い丘を下り始めた。
やがて、薄煙の家が見え始めた。家というより小屋に近い粗末なものであった。
近づくと童の甲高い楽しそうな声が聞こえた。
「もうし。」
曾路が声をかけると、戸の隙間から老爺が顔を出した。
「わしらは旅の者じゃ。すまぬが、今宵一晩泊めてはくれぬか。」
「こんな杣屋でよろしければどうぞ。ただ、食べるものとて何もありませんぬが」
やがて、暗がりに囲炉裏の炎がゆらゆらと影を遊ばせるなかで、男たちは粥を啜った。
「ところで旅の御方。わしらはこんな草深い地で、毎日同じような日を送り、里の話に飢えておりますじゃ。なにか面白い話をしてもらえませぬか」
「そうでありましたか。それほど面白い話ではないが」と曾路が応じた。
「私たちは旅をしながら俳諧に暮らしています。」
老爺が尋ねた。「ほう。このような草深い地でどのような俳諧をなさるかの」
「さよう。宗匠、先ほどの発句をご披露下され。」
宗匠と呼ばれた男が、先ほどの紙を取り出す。
流麗な筆遣いで認められた『いにしへの栄枯盛衰夏野哉』という文字が見えた。
「なるほど、これが俳諧ですか。いにしへの栄枯盛衰、なるほど。これはずしりと来るお言葉。なるほどなるほど。」老爺は感銘を受けた熱い目で発句を眺めた。
「ただ、こう言っては何ですが、『夏野』が気になりますな。」
隣に座っていた宗匠と呼ばれた男の体がぐっと強張った。
「いやいや、ほんの年寄りのたわごとで。ただ、この草深さは夏野よりも『夏の草』の方がしっくりくると勝手に思っただけで。年寄りのたわごと。お気になさらないでください。」
すると囲炉裏の反対側に坐っていた老婆が急に口を出した。
「わしも思ったのじゃが、『いにしへの』がどうも気になるのじゃ。遠い過去のことじゃろ。夢の果て、とか夢の跡とか夢と読んだ方が、往時の人たちの思いが伝わるような気がしますじゃ。」
そこへ孫娘が甲高い声で言った。
「おじちゃん、おじちゃん。この字は何て読むの。」
曾路が答える。「『えいこせいすい』と読むのじゃ。」
「どういう意味。」
「むかし栄えていた人が、今は滅んでしまった、という意味じゃ」
「ふうん。昔強かった人が弱くなっちゃたの」
「まあ、そんなところじゃ。」
「ふうん。むかしの強者(つわもの)ね。そういうふうにいってくれないとあたいには分からない」
曾路は、ぽんと手を打つと矢立を取り出して何やら書き始めた。
『つはものどもが夢の跡夏の草』
老婆が畳みかけるように言い放った。
「ダメじゃダメじゃ。そんな俳諧では誰も分からん。上と下をひっくり返すのじゃ。」
老婆は曾良から矢立をひったくり、さらさらと書き始めた。
『夏の草つはものどもが夢の跡』
宗匠と呼ばれた男は目の前に繰り広げられた顛末に気が遠くなるように感じた。
「わしの言葉は『夏』しか残っとらん」と心の中で叫んだ。
額にはみっしりと汗が光っていた。

翌朝、男たちは杣屋を後にした。男たちの前に夏草が茂っていた。
宗匠と呼ばれた男は夏草を憎々しい目で見た。
やがて二人は歩き始めた。宗匠と呼ばれた男は、どこまでも夏草が続いている道がつくづく嫌になった。
「夏草はいやじゃ」と宗匠はつぶやいた。
矢立を取り出してさらさらと書き始めた。
『夏草いや兵どもが夢の跡』

武蔵野探勝を歩く64「全生病院」

 一、はじめに

 虚子とその一門は、昭和五年八月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和十四年まで続けられ、その回数はちょうど百を数えた。
 武蔵野探勝第六十四回は、昭和十年十一月三日にハンセン病療養所である全生病院で行なわれている。
当時、療養所には「ホトトギス」投句者を中心とした入所者による俳句愛好会『芽生会』が活動しており、俳誌『芽生』八十四号(昭和十年十二月一日発行)は武蔵野探勝会歓迎号とされている。この俳誌の存在によって、探勝会参加者全員を特定することができる。
また、現在は『国立療養所多磨全生園』となった当地には国立ハンセン病資料館が併設されており、その図書室には『芽生』以外にも『山桜』『愛生』『楓』など虚子に関係する貴重な俳誌も保管されている。

 二、第六十四回『全生病院』中村汀女、高木晴子、星野立子記

 この回は、女流三人による会話形式の記録となっている。            
『―新宿から村山までのドライブは素的でしたね。(略)
―病院の芝生はきれいでしたね。松があって。
―赤松でしたね。』
このような会話で話は進んでいく。現在の全生園も正門から療養所入り口付近には立派な赤松がある。
『―先づ軍隊式の大きな炊事場が目に残りましたね。井戸端に二人の患者さんが菜っ葉を洗ってゐましたっけ。』
 炊事場、井戸端は現在の給食棟、洗濯場の付近にあった。『―菊を作ってゐる籬に沿うて左に折れて行くと、ミシンをかけたりしてゐた一軒が目につきましたがそれは百合舎といふ名の女の人ばかりの住んでゐる家でした。(略)
―少年寮の人達は、大変大さわぎして遊んでゐたのに、私達が通る時、バタンと戸を閉めてしまひました。』
園内には当然子どもたちもいた。彼ら彼女らは十五歳になるまで少年寮、少女寮に住むことになっていた。少年寮は「若竹舎」「桐舎」、少女寮は「百合舎」「椿舎」と言う名称だった。
『―広場もあって、そこの傍に全生富士といふお山がありました。』
これは大正十四、五年の敷地拡張時に入所者の希望により入所者たちの手で造った築山で、現在は「望郷の丘」と呼ばれている。
『―広場から正面に講堂が見えてゐましたね。杖をたよりに二三人歩いてゐた人がその講堂に上ってゆくのに気がついてふと中を見ると、演壇に立って話しをしてゐる父が見えました。』(略)
『―先生のお話、遅れて行ったので半分きりきけませんでした。
 ―山本暁雨さんの答辞に胸がいっぱいになりました。「刻々に蝕まれゆくばかりの・・・」と声もしっかりと立ちつづけて話される姿に泣かされました。』
 ここでいう講堂は、「礼拝堂」であり、現在の厚生会館付近にあったと思われる。
 この時の虚子の五分ほどの挨拶は前出の『芽生』に筆記録が残っている。
残念ながら暁雨の答辞は残されていないが、『芽生』には答辞内容が推察できる文章が掲載されている。

三、虚子と暁雨の挨拶(抜粋)

虚子
『此の四季の現象を最もよく受け入れて楽しみ且つ詠ずるのは、俳句を作る人の特権であります。俳句を作られる方は、実に此の天が与へてくれた幸福を受け入れる権利を所有し行使する方であると思ふ。今を時めく人でも四季自然の移り変りに全く無関心で此の天与の幸福を享受し得ないのに比して、あなた方が、それに深い関心を持ち俳句を詠ぜられると云ふことは大へんな幸福であると私は思ひます。
「ホトトギス」にも皆さんの投句が多くあります。それを見てゐるといつでも私は考へます。(略)成績の如何を問はずして、只四季の移り変りを純粋に楽しむこと、そのことが非常に幸福であります。成績に囚はれ成績を気にすることは、折角の幸福を不幸にして了ひます。そうしたことを問題にせず、皆さんは唯純粋に、俳句に遊ぶといふ考へさへあれば、非常な幸福であると考へます。』

 『栄えの日に逢ひて』山本暁雨

『月々ホトトギスに投句する事を許されて、一般作者と何等分け隔てなく、懇切叮嚀なる御指導を給はってをる事だけでも、私共にとって過分の事と、芸術の有難さを痛感しをる次第である。
凡そホトトギスの流れを汲む句会は、全国津々浦々到る所に散在し、まだ見ぬ虚子先生を慕ひ憧れてゐる多くの作者のことを思ふ。然れども健康と自由に恵まれてゐる其人々は、仮令何なる僻地に住むと雖も、何時かは先生の臨まるる句会に或は講演会に逢ひ得らるる可能性があるのである、が併し私共の如き隔離療養を受けてゐる者に至っては、レコードに依るか或は又マイクを通して先生の御声を拝聴する外道はないのである。況して先生の臨まるる句会など出る、といふやうな事は夢以外には許されぬ儚い望みであった。然るに何たる幸福ぞ、突如として、虚子先生を中心とせらるる、武蔵野探勝会の御一行がわが村を訪れらるる、の吉報が齎らされたのである。(略)
虚子先生が私共に給はった御言葉こそ、斯道修行の標識灯となり、芽生俳壇の行く手は光り輝き大いなる希望に満たされたのである。(略)』

四、おわりに

 現在、全生園のような国立ハンセン病療養所は全国に十五ほどある。
 平成三年十一月三日に紫綬褒章を受章された俳人・村越化石(濱)は草津町の栗生楽泉園に入所されていた。
家族からも一般社会からも完全に隔離された入所者たちは何を思っただろうか。
「誰からも必要とされていない」という絶望の中から、それでも彼らは創作という一つの道を見出し、閉ざされた一角の中で懸命に生きてきた。国立ハンセン病資料館にはそうした入所者たちの声がぎっしりと詰まっていた。
人々からとうに忘れられた武蔵野の雑木林の一角にある療養所を虚子が訪ねていたことに心から敬意を表したい。 そして、中学・高校時代にすぐ隣の小平市に住んでいながら、その存在をまったく知らなかった私は、このたび多磨全生園に訪問できたことを心から喜んでいる。

下総日常探勝4

俳人協会から4月に発刊された『新房総吟行案内』が届きました。
早速開いてみると、写真もすべてカラーで美しい装丁です。松戸市についても「戸定邸」「二十一世紀の森と広場」や「矢切の渡し」など9か所の写真が掲載されていました。
編集に当たられた方々の大変なご苦労に心から感謝いたします。
私も鋸南町や成田国際空港などで詠んだ句を掲載していただきました。これを大いなる励みにして参ります。
石切場跡にみほとけ岩燕 稜雨

武蔵野探勝を歩く32「六郷堤」

 一、はじめに

 虚子とその一門は、昭和五年八月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和十四年まで続けられ、その回数はちょうど百を数えた。
 武蔵野探勝第三十二回は、昭和八年三月五日に川崎側六郷堤にて行なわれた。ところが句会場の「安田運動場」の位置がなかなか特定できないでいた。
平成二十年五月十一日、川崎市教育委員会地名資料室の杉田浩氏から「安田グランドが判明した」とのご連絡を受け、ようやく筆を取ることができたのである。ここに杉田氏に心から御礼申し上げたい。

 二、第三十二回「六郷堤」松本たかし記

 松本たかしは記す。
『省線川崎駅下車。十時半の集合には約三十分の遅刻。駅のタクシーに今日の会場、安田運動場までと命じるとすぐに判つた。直き町を離れ堤へかかる。(略)堤の道は綺麗に舗装され、春の雨に濡れて滑らかに光つてゐた。右手は更に高く一間足らずの草堤が塞いでゐるので河は見えない。左手は川崎の町はづれの寂れた家並続き。五分と走らぬ間に自動車が下降し、堤下の広場へ着く。』
現在の川崎駅西口には、巨大なオフィスビルやマンションが建ち並んでいる。多摩川へ向かって行くと堀川町のT字路にぶつかる。通称大師道(府中街道)である。左へ少し進み幸町交番前の歩道橋の上に昇れば多摩川を見ることができる。
ここからほどなく河原町の二又に出る。そして二又の左側が河原町団地という市営住宅となっていて、ここに安田運動場があったというのが第一の仮説である。
 たかしは多摩川に向かったので進行方向は北である。そして右手が堤であれば川沿いに左折したことになる。
 当時の交通状況はわからないが、せいぜい平均時速は二十五ないし三十キロ程度であろうから、川崎駅から運動場まで二キロメートルほどの距離だと推定できる。
 ちなみに先ほどの河原町団地までは一・四キロである。
 たかしは記す。
『堤から岐れ下りた道の所に二本の柱だけの門があり、簡単な小舎が建つてゐるだけで、あとは点々と草の萌え出た、唯広い許りの運動場が雨を受けてゐた。』
『小舎の鍵の手になつた部屋に陣取つた面々は、めいめい持参の弁当をひろげた。』
 これらの描写によれば、堤から少し下りたところにある運動場には入口があり、それはあまり広くなさそうである。そして句会場となった小舎は鍵の手の形であったようだ。
 大日本帝国陸地測量部が大正十一年に測図した一万分の一地図「矢口」を見ると、ちょうど二又(現在の河原町団地前)のところに堤から降りる小道がありその先に空き地がある。これが先ほど記述した市営住宅の場所である。
 ところが、その先二又を右に七百メートルほど進んだ左側にも運動場らしき空地がある。
両者の違いは土地の形で、河原町団地の方はほぼ四角なのだがきっちりと区画されていない。後者の土地の形状は鍵の手の形なのだが、区画の線が人工的に整えられている。
そして、堤から戻るような形でわざわざ小道がつけられていていかにも入り口風である。
しかしながら、昭和三十三年の川崎明細地図にはどちらも跡形もなく消えてしまっている。
 たかしは記す。
『堤の草土手の上に佇つと目の下に大きく曲つた六郷川が現れた。川上も川下も共にひどく曲つてゐてこの玉川の流れは来し方行末はるかな姿はかくして見せない。(略)対岸のゴルフ場では此天気にもクラブを振つてゐる人がぼつぼつ見える。』
手掛かりは川の曲がり具合と対岸のゴルフ場だが、二つの地点からも同じような曲がり具合に見え、ゴルフ場も真反対の対岸にあるとは限らず決め手にならない。

三、杉田浩氏の発見

杉田氏によれば川崎市立御幸小学校の創立百周年記念誌『梅のかおり』(昭和四十八年)の中に『安田グランド』という名が出てくるというのである。
それは小向(地名)の変遷という概念図が明治時代、大正・昭和初期、昭和二十六年と三つ描かれている中の大正・昭和初期の略図に、ちょうど妙光寺のはす向かいの場所に『安田グランド』と書かれていた。
手書きの概念図なので、グランドの形は鍵の手ではなく四角に、また正確な位置にはないだろうが、先ほどの後者の位置、すなわち現在の戸手三丁目あるいは戸手四丁目の神奈川県住宅公社の団地付近にほぼ符合するのである。駅からの距離も約二・一キロメートルであり、この点も問題ない。
かくして同氏の発見によってほぼ安田運動場の位置は特定できたのである。
草萌に堤の風の強さかな 虚子
枯草も蓬も時に紛ふなり 蚊杖

「武蔵野探勝」との出合ひ

武蔵野探勝を歩く56「近藤邸雛祭」

近藤邸流転

 東京駅を中心に半径五十キロメートルの円を描いてみる。神奈川方面では茅ヶ崎市、埼玉方面では飯能市、東京都下では八王子市あたりであろう。ところが、東南の千葉県へ目を向けてみれば長柄町と言う聞きなれない町に行き当たる。公共交通機関を利用したとすると、はたしてどのように乗り継いでどの駅で下りればよいのかさえ分からない。
 そんな田舎町に近藤邸はある。
 所有者であった近藤氏は、貴族院議員の近藤滋弥男爵であり、日本郵船の創始者・近藤康平氏の後嗣である。
 虚子と男爵は能を通しての知人であった。
 昭和十年三月三日、当時「武蔵野探勝」と称して月に一度の吟行会を続けていた虚子は、門下の連衆とともに「広尾」の近藤邸を訪れている。
 この吟行に参加した当時の三菱の地所部長であり、「虚子俳話録」の著者でもある赤星水竹居が「武蔵野探勝」第五十六回『近藤邸雛祭』として記録を残している。そこにはこう記されている。
 『虚子先生やあふひさんがお能で別懇の間柄である、広尾の近藤男爵邸のお雛祭を見せて戴くことになつた。(略)一行が揃つたところで主人御夫婦が出て来て、慇懃に挨拶をされた。一行の方から虚子先生とあふひさんが皆を代表して答礼をされた。我々は其言葉につれて小学生の生徒の様にお行儀よく座つて、畳に手をついて一斉に頭を下げた。その連中の中にはお能の先生の松本長さんも居られた。』
 ここに言う「あふひ」とは本田男爵夫人であり、当時の婦人俳句会の主要メンバーである。能を詠んだ「しぐるゝや灯待たるゝ能舞台」という句がある。また「松本長」は、明治の能名人と言われた宝生九郎の一番弟子であり、松本たかしの父親のことである。
 さて、こうして第五十六回武蔵野探勝会は近藤邸の雛祭を句材に吟行会が催されたのであるが、水竹居の記録から近藤邸のたたずまいを見てみよう。
 『主人がお能に堪能だけに玄関に能人形が飾ってあつた』『鏡の様にぴかぴか光る廊下や梯子段を滑りこけぬ様に足元を注意しながら皆が歩いて、二階の十畳二た間打通しの雛の座に案内された。』『階下の部屋から時々ピアノの音がもれ聞えた。』『お庭には沈丁花や紅白の梅などが咲いてをり、奥には御先代の御遺愛の其日庵を市ヶ谷の旧邸から移された床しき茶室や、天照大神と近藤家の祖先を祀つてある庭社などがあつた。』
 この描写の中に『市ヶ谷の旧邸から移された』とあるように、この近藤邸は昭和五年に建築されているので、この吟行の時点では築五年ということになる。
 設計は、伴仲信次氏二十四歳の力作とのことで、入母屋総檜造りの純和風建築で、かつ全室が京間取りの関西風造形である。
 その近藤邸が、なぜ今は長柄町にあるのだろうか。
 その後の近藤邸が、昭和二十年の敗戦に際し、スイス大使館として使われることになったところから流転がはじまる。
 現在もスイス大使館は有栖川記念公園の北側、南麻布五丁目にある。まさにここが「広尾」の近藤邸の所在地であった。
 幸いなことに、スイス政府へ譲渡する際に極力庭に手をいれないように約束をされたそうで、少なくとも庭については、往時の近藤邸の様子を残していると言う。
 近藤邸は、長く大使館として使用されていたが、昭和五十三年十一月の建て替えに際して、スイス連邦共和国より千葉県長生郡「長柄ふる里村」に寄贈されることになる。
 そして、実に数奇な運命をたどり、現在は「翆州」(これは「スイス」のもじりであろう)という名の料亭となっているのである。
 千葉東金有料道路から千葉外房有料道路に乗り継ぎ、板倉インターチェンジで降りる。
 ここから約七キロメートル、時間にして車で十五分といったところか。
 田舎道を走り続けるといきなり近代的なビルディングが現れる。日本エアロビクスセンターである。
 その広大な敷地の一角、落ち着いた森の中に「翠州」に変貌した近藤邸はある。
 広尾からはるばる千葉の地へ移築されて四十八年、建てられてから数えれば九十六年である。
 貴族の屋敷として、異国の大使を迎える屋敷として、そして今は団欒の客を迎える料亭として近藤邸は在った。
 その流転の年月に思いを馳せたとき、近藤邸は果たして幸せだったのかどうか。これほど長きにわたり愛され続けてきたのだから幸せに違いない。そんな詮無い思いが私の脳裏をかすめるのである。

「武蔵野探勝」との出合ひ

武蔵野探勝を歩く16「浦安」

1、はじめに

虚子とその一門は、昭和5年8月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。

虚子一行は、昭和6年11月1日の第16回武蔵野探勝会「浦安」で千葉県浦安市を訪れている。

今回は、その日の記録者であった池内たけしの記述を追いながら、当時の吟行の模様を再構成してみたい。

2、「浦安」への経路

たけしは記す。

『十一月一日の第一日曜日午前九時半に深川の高橋に集合することになった。高橋からは浦安行きの汽船が出る。汽船と云っても隅田川の一銭蒸気といづれ劣らぬほどのもので、狭い汚ならしい船室に茣蓙を敷いたばかりの座席と腰掛が並べられてある。私達一行はその座席と腰掛とに割り込んだ。絶えず機械の響きに体が中気病みのやうにブルブル震えた。ガソリンの臭い煙にも苦しめられた。』

当時、高橋から浦安への船便は二つの会社が運航していた。ひとつは、大正八年から東京通船株式会社が就航した定期船で通称「通船」と呼ばれたもの。もう一つは、「通船」の就航後まもなく葛飾汽船会社が出した葛飾丸という十六、七トンほどの小型の定期船である。たけしの記述から、虚子一行は葛飾丸に乗船した可能性が高いことが推察される。

一行の船は『架つている橋の下をくぐつては行く中に稍々水路の広くなった処へ来たと思ったらそれは中川の流れの注いでゐる処』を越え、荒川放水路を越え、江戸川を越える。『この川を渡ると最早東京府ではなくて千葉県に這入るのである。浦安に着く。』

浦安町誌によれば、当時の『汽船発着所は欠真間一六九三番地吉野屋で、同家地先の川岸から乗船する。』とされている。この吉野屋は、現在も猫実五丁目に船宿吉野屋として営業している。

さて、吉野屋にて下船した虚子一行が、現在の境川沿いに河口に向かって歩いたことは間違いない。
以下のような句が詠まれている。

欄干に網と蚊帳とが干されあり 拓水

蚊帳干せる橋の手すりや鯊の夕 虚子

両岸の鯊釣る中に舟路かな 青邨

鯊舟の猫実川をこぎ出づる 虚子

ただし、境川の右岸左岸のどちらを歩いたかという手掛かりはない。右岸には宝城院、大蓮寺、左岸には花蔵院などの寺社があるものの、残念ながらそれらについての記述はない。

また、虚子の句に「猫実川」とあるのは、猫実川まで足を運んだのではなく、当時は境川のことを猫実川とも呼んでいたことを意味する。

3、船橋屋のこと

たけしは記す。

『船橋屋といふ一軒の茶屋があった。其処へ一行は一先づ落付いた。茶屋と云っても海水浴場の憩み場所のやうな、ただ広い掛出しの上に茣蓙を敷いたばかりの処である。一枚の戸障子さへはまってゐない。一面の蘆原を見通して眺めはこの上もない。幸少しの風もない。浴びるやうに日が射し込んでゐる。春のやうに暖かい。』

汽船といい茶屋といい、この日の一行はここでも茣蓙のもてなしを受ける。

花蘆に埋もれて立つ茶店かな あふひ

ととのはぬ昼餉もどかし鯊の茶屋 立子

鯊の客どやどや入りぬ船橋屋 薊花

さて、いま私の手元に一枚の写真がある。

海水浴の海の家らしき前に六人の男女、男の子二人、女の子二人の計十人の記念撮影である。その海の家の柱には看板が掛かっていて、その薄い文字をよく見ると屋号は定かではないが、「手荷物御あづかり・・・」という文字が読める。そして、店の中には寛いでいる数人の客がいる。

写真の子どもたちばかりではなく、中央の壮年も裸足であり、また右の男性の着ている法被には、何となく「食堂」という文字が読める。いかにも海の家という感じである。

この写真は、「武蔵野探勝を歩く」を書くにあたり、浦安市議の高津和夫氏(故人)より提供していただいたものである。

氏によれば、この写真の茶屋は、「船橋屋」ではないが、船橋屋同様に当地において営業していた海の家であるという。

同じく高津議員よりいただいた昭和六年二月、すなわち虚子一行が浦安を訪ねる九ヶ月前の千葉県浦安町鳥瞰図によれば、汽船乗船場から海水浴場に向かって五つの橋が架かっており、その五つ目が江川橋であることが、左岸の花蔵院、右岸の東学院との位置関係から読み取れる。

そして、その先の海水浴場には「見はらしや」「浦浜屋 田川」という屋号の書かれた中に確かに「舟橋屋支店」「舟橋屋本店 佐藤」と書かれているのが確認できるのである。

すると、この船橋屋の位置を特定するには、江川橋から海水浴場までの距離がわかればよいことになる。

浦安市は、おそらくわが国でもっとも近代から現代へかけての変貌が大きかった街だろう。現在の浦安市の地図を眺めても旧市街地と新市街地との区分すら見分け難い。

それでも、船橋屋の所在地は少なくとも海楽一丁目ではないことは自明である。

仮に、鳥瞰図がほぼ正確であるとすれば、現在の猫実一丁目六番地周辺だと思われる。

4、吟行の参加者

最後に、吟行の参加者を可能な限り特定し、その俳句を紹介したい。

飯食ふや口にとびこむ秋の蠅 高浜虚子

(中略)

鯊舟の出はらひ居たる日和かな 山本薊花

以上、少なくとも18人である。

「武蔵野探勝」との出合ひ

武蔵野探勝を歩く79「越ケ谷の梅見」

虚子とその一門は、昭和5年8月から月1度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。その第79回『越ケ谷の梅見』は、昭和12年3月7日に越ケ谷市北越谷の浄光寺で行われた。

記録者の楠目橙黄子は記す。

『東武鉄道会社から一通の案内状が来た。見ると、来る三月七日当社沿線越ケ谷梅林に御曵杖の栄を賜りたい、との事である。』

今回の吟行は、これまでと異なり東武鉄道からの招待である。観光地として越ケ谷梅林を宣伝し、沿線開発につなげたいということが同社の方針だったとしても、「ホトトギス」誌に掲載されていた「武蔵野探勝」が人気を博してきた証左でもある。

一行は、『雷門駅の改札口へ行くと、会社の案内の方が幹事の蚊杖氏と一緒に受付けに控へてゐて私達にリボンの団体徽章と各種の案内記入りの袋を渡して呉れた。(略)然も東武鉄道から社員の羽鳥、羽六両氏が東道役として同車されたりしたので、(略)一同頗る悠々大に貴賓らしく車中に納まつたものである。』

蚊杖(ぶんじょう)氏とは、武蔵野探勝の企画、運営を担当する安田和重である。

『雷門を発して四十数分を費し、駅名の越ケ谷を一つ越して武州大沢といふ駅に下車した。』

武州大沢駅は、現在は「北越ケ谷駅」と改称し、越ケ谷駅から二つ目の駅である。

『梅林を貫く路を行くほどもなく浄光院の境内に這入る。』

入口に庚申塚や梅の里 白山

梅の寺青年の居り茶の給仕 雨意

現在は庚申塚は見当たらない。また、接待役の青年も東武鉄道社員である。

『そこへ一行に遅れて参著した水竹居、風生氏等と共に新翰長越央子氏が久しぶりに我々の前に其温容を現したので皆拍手して之を迎へた。』

水竹居は赤星陸治、後の三菱地所の会長、当時は専務だったと思われる。風生は言わずと知れた富安謙次、後の逓信次官であり、『若葉』主宰である。

越央子は、大橋八郎、前逓信次官である。岡田内閣の法制局長官を任じられていたが、二・二六事件によって総辞職となり、この吟行の1ヶ月前に、林内閣の内閣書記官長兼内閣調査局長官に新たに任命されたのであった。そのことから『新翰長』と冠されたと思われる。

『不動明王と書いた札を正面に打つてある本堂の前には、うす濁りの水を湛へた池がある。その池の向ふに古梅園と刻んだ碑が枝垂梅を前にして苔さびて建つてゐる。』

残念ながら、現在の浄光寺には不動明王の札や古梅園と刻んだ碑はもちろんのこと、池も無くなっている。

池のあり紅白の梅相うつり 花蓑

袖に散る薄紅梅をあはれと見 薊花

二句目の作者である山本薊花は、『風の道』同人会長だった故山本柊花氏の父上である。

青邨の船はいづこぞ枝垂梅 越央子

山口青邨は、このとき留学のために渡欧の身であった。

『境内ばかりでなく此寺の周囲一帯が梅林であつて、面積数十町歩に亘り、水戸の偕楽園を凌ぐといふのである。』

現在は、宮内庁埼玉鴨場の北側にある越ケ谷梅林公園に当時の面影をとどめており、毎年3月上旬に行われる梅まつりでは、2万平米の敷地に約300本の梅を楽しむことができる。北越谷駅から徒歩20分ほどの距離である。

梅の下皆耕して広きかな 凡秋

凡秋は、千葉大医学部の加賀谷勇之助法医学教授。今でも千葉大学に凡秋の散歩した凡秋谷や凡秋小径、そして句碑などが残っている。

『百姓家の庭に樹幹朽ち果てた老梅が横つてゐて、その傍に紙の幟が立ててあり「此雲竜梅数百年前先祖植付之梅」と稚拙な字で書いてある。此梅が梅林中一番古い樹であらうか。』

地に伏して朽ちたる梅の瑞枝かな 橙黄子

蓆織る雲竜梅のありどころ 椎花

静かなる梅なき家や梅の村 虚子

垣間見る丸帯売りや梅の里 あふひ

雲竜梅は、浄光寺後ろの地主の一人である黒田家のものとされるが、現在では残っていない。浄光寺周辺に何軒もの黒田家があるが、私(藤井稜雨)は、それがどの黒田家かは特定していない。

『梅林の道が尽きると元荒川の堤に出る。その堤の上に稲荷を祀る御堂があつて、椿の巨樹が真紅な花をぼたぼた堂裏の土に落としてゐた。』

折り折りて尚花多き宮椿 虚子

この稲荷堂は文教大学へ渡る橋の右手前にある。巨木はないが、椿は数本植えられている。

『此堤上の景色を眺めてゐると、駅の方から慌しく自転車を走らせて駅員がやつて来た。(略)越央子に電話がかかつたといふ知らせがあつて、間もなく迎への自動車に乗つて駅に向かつた越央子氏は再び私達の前に姿を見せなかったのである。』

越央子が呼び出された理由は分からないが、ある程度の推測はできる。

2月2日に林内閣が成立したものの、政権としては極めて不安定であった。そして、この吟行の24日後の3月31日には衆議院解散、翌4月1日が総選挙の公示だったことを考えれば、解散時期について閣内での協議がなされたと考えるのが自然であろう。

また傍証としてではあるが、当時衆議院議員であったと思われる武蔵野探勝常連の大橋杣男が、今回の越ケ谷吟行に参加した形跡がない。

さて、この武蔵野探勝「越ケ谷の梅見」から61年後の平成3年3月3日、「ホトトギス」系の結社「籐椅子会」が,浄光寺周辺で吟行を行っている。

その時の記録者である三角優子氏は記す。

『池はもうないが、古梅園の碑は今も残ってゐる。探勝会の折の虚子先生の御句といふ

寒けれどあの一むれも梅見客 虚子

の句碑が昭和50年3月11日、上原恵美さんによって建立されてゐる。こじんまりとした句碑の彫は浅い。しゃがみこんでよく見ないと句碑とは分からない。(略)浄光寺の大黒様が「虚子先生の句碑をもう少しちゃんとした所に置かなければと思ひます」と申訳なさそうに言はれたことを思ひ出しつつ帰路についた。』

現在の浄光寺には、上原氏建立の句碑と、それを数回り大きくしたもう一つの句碑との二つが建っている。

新たに建てた句碑が、『もう少しちゃんとした所に置かなければ』という大黒様の応えなのだろう。

籐椅子会の記録を思い起こしながら、私は感慨深く二つの句碑に見入ったのだった。

「武蔵野探勝」との出合ひ

武蔵野探勝を歩く6「寒鮒釣のゐる風景」

一、はじめに

虚子とその一門は、昭和5年8月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。
虚子一行は、昭和6年1月18日の第6回武蔵野探勝「寒鮒釣のゐる風景」(山口青邨記)で千葉県流山市を訪れている。
今回は、山口青邨の記述を追いながら、当時の吟行の模様を再構成してみたい。

二、「寒鮒釣のゐる風景」の概要

青邨は記す。
『今日は流山町あたりで、江戸川べりの寒鮒釣を見ようといふのである、一行十七人、降るかも知れないと懸念した空が晴れて、まアよかつたといふ天気。』
武蔵野探勝を解き明かすとき、まず頭を悩ませるのが参加者名である。この『十七人』という青邨の記述は参加者の確定に非常に役立った。ここでまず参加者を列記しておく。
高浜虚子、赤星水竹居、麻田椎花、市川東子房、大橋越央子、奥村霞人、柏崎夢香、上林煤六、菊地まさを、小林拓水、千葉富士子、
中村秀好、本田あふひ、松藤夏山、水原秋桜子、安田蚊杖、山口青邨の17人である。
『馬橋といふ駅で下車、そこから流山までは軽便が通じてゐる。見ると直ぐそこのホームにちやんとその軽便が横づけになつてゐる、何馬力か知らないが、ジエームス・ワツトが初めて試運転をしたあの騾馬見た(ママ)ようなベビーロコである、その騾馬の背中には
十八世紀型のマシユルームの煙突をつけて、それがまた勇ましくも真黒な煙を吐いてゐる
(略)みんなは手を拍つて喜んだのである』
この軽便は、馬橋・流山間を結ぶ現在でも単線の流山電鉄であり、虚子一行が乗った当時の客車については、同タイプのものが流山市運動公園の一角に保存されている。
さて、実際の「寒鮒釣のゐる風景」の一行の方は、にぎやかに流山に乗り込んできたのであったが、次第に様子がおかしくなってくる。寒鮒釣がいないのである。そこで付近の人に尋ねることになる。
『「この辺で寒鮒釣をやつてゐるところは、どこですか」之はちよつと間の抜けた質問であらう。「さうですね、ずつと下流の方と、それからずつと上流の方でさア」之は何と要領を得た答であらう』
実に微笑ましいやり取りである。
『寒鮒釣らしい何者も見えない。風がいやに冷たいだけである。(略)眼前の蘆の中には蘆刈の焚く焚火の煙が白く揚つてゐる。みんなはすつかり落着いてしまつて、蘆刈の句を作り始めた。寒鮒釣を見る吟行が蘆刈を見る吟行に変つたことも面白いことである。』
おおらかな場面展開である。これこそ吟行の楽しさであろう。

三、武蔵野探勝「寒鮒釣のゐる風景」の俳句

(中略)

四、吟行地の推定

本稿一番のポイントである吟行地の推定を行いたい。青邨の記述の中に幾つかの手掛かりがある。以下、列記する。
(イ)『そこで町にひつ返して「矢葉喜」という小料理屋に上る。(略)私がこの家の屋号を忘れないやうにと思つて手帳に書きつけてゐると、先生が側から「流山十番地」ですよと言はれたので、成程と思つてそれも書きつけた。』
(ロ)『又さつきの道を歩いて、堤防の段々を上つて、又それだけの段々を下りて川縁に出る。渡舟守の小屋がある。矢河原渡船場 一、大人二銭、小人一銭(略)芝居の渡船場そのままの光景である。』
(イ)の記述は一行の昼食風景である。
ここに出てくる小料理屋の「矢葉喜」は、流山市流山一丁目の旧流山街道沿いにあった。残念ながら終戦後に店を閉めてしまったものの、現在A氏ご夫妻の住居として建物は一部残っている。
(ロ)の記述の矢河原(やっからと読む)の渡船場はすでに廃止されている。江戸川で残っている渡船場は、「矢切の渡し」で有名な矢切を残すのみとなってしまった。
しかしながら、矢河原の渡船場の位置を確認することは出来る。江戸川沿いに渡船場跡の標識が立っている。
矢河原の渡しは、矢葉喜よりも上流側にある。ゆっくり歩いても5分とかからない距離である。
再び青邨の記述に戻る。
青邨によると「矢葉喜」の内部はこのようになっている。
『上り端に二階の階段が口を開いてゐる、階下が板場になつてゐて』
『この家は古いつくりではあるが大変きれいに掃除が行きとどいてゐた、廊下などつるつるすべるやうに光つてゐた(略)「富潤楼」といふ煤けた額がかかつて居た。』

さて、ここで「籐椅子会」の紹介をしなければならない。「ホトトギス」系の結社であり、故野村久雄氏を中心に武蔵野探勝の吟行地を一つ一つ訪ねていた。
昭和60年3月9日付の県紙「千葉日報」に、「籐椅子会」の流山訪問の記事が掲載されている。
「籐椅子会」が、流山にて吟行を行ったのは昭和60年1月27日だったが、「矢葉喜」にて興味深い発見をしている。
それは、青邨が手帳に記した「富潤楼」という額が、実は「富潤屋」の誤記であったというのである。
私(藤井稜雨)が、A氏宅を訪ねたのは平成14年2月のことである。
青邨の描写そのままに、塵一つない清掃の行き届いたお宅で、磨き上げられた廊下が光っていた。かつて店であった土間の中央に小さな生簀が残されていて、見事な鯉が悠々と泳いでいた。
二階に上げてもらった私は、早速、問題の「富潤屋」の額を拝見させていただいた。
カメラのシャッターを切るほどに感動を新たにしたが、それ以上に感激したのはA氏ご夫妻のお人柄であった。
初対面の私を親切に応対してくださったばかりか、二月の寒風の中をお見送りまでいただき、恐縮するばかりであった。私は、思わず深々と頭を下げた。そうして、私は今回知りえたことを一人でも多くの人に伝えたいと心底思った。
流山の町はすでに冬の黄昏時であった。

「武蔵野探勝」との出合ひ

武蔵野探勝を歩く68「明ぼの楼」

一、はじめに

虚子とその一門は、昭和五年八月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和十四年まで続けられ、その回数はちょうど百を数えた。
「風の道」七月号(第二四一号)「武蔵野探勝と世田谷」の中で、高野素十と日本郵船機関長であった上ノ畑楠窓の意見を聞き、虚子が洋行を決断したことはすでに触れた。
虚子はこの洋行により、武蔵野探勝会第六十八回「明ぼの楼」から七十一回「豊島園」までの四回は欠席となる。今回は最初の欠席吟行会「明ぼの楼」について書いてみたい。

二、「二・二六事件」と武蔵野探勝

楠目橙黄子は記す。
『武蔵野探勝会が回を重ねること六十八回にして二つの変動に遭遇した。その一つは虚子先生洋行御不在といふこと、その二は東京に於ける二・二六事変勃発の為め、定例第一日曜日に開催出来なかつたといふこと。』
二・二六事件と言えば、今日の私たちにとって歴史的大事件である。それが橙黄子によれば、事件そのものよりも『(武蔵野探勝が)定例第一日曜日に開催出来なかつた』ことが重大視されているのが非常に興味深い。
たとえ歴史的大事件であれ、同時代のその時その瞬間に生活している者にとっては、身近な物事の方が案外大事なのかもしれない。
『幸にして時日の方は、未だ戒厳令下にありといへども事変鎮静に帰したので、第二日曜の三月八日に改めて探勝会を開催することになつた』
武蔵野探勝会開催日は「二・二六事件」の実に十日後である。しかも師である虚子が不在であるにもかかわらず、なぜそこまで開催にこだわるかといえば橙黄子はこう記す。
『併し先生御出発に当り、俳句界の行事一切従来通りとの仰付けだつたので、我々忠実なる俳諧の輩は之を遵奉することにした』。
『俳句界』という言葉の表現や、虚子を取り巻く当時の心意気が伝わってくるようである。

三、「明ぼの楼」楠目橙黄子記

『雪催ひの空を仰ぎながら目蒲池上線の電車から下りて、大森駅通ひのバスに乗り浄国橋停留所といふところで車を捨てる。(略)老爺に訊ねると、「オヤさつきも明ぼの楼をきかれたよ、その橋を渡つてすぐ左の横路をお這りなさい」と教へて呉れた。』
池上本門寺の南を流れる呑川に、現在でも浄国橋がかかっている。橙黄子が道を教わった老爺は左の路地に入れと言っているので、橙黄子は橋を渡って、そのまま百メートルほど進んだ左の路地に入ったと思われる。その路地を二百メートルも進めばやがて二又が現れ、左手の坂道を登っていく。この道は本門寺につながっているのだが、その坂の中腹にある「大森めぐみ教会」「めぐみ幼稚園」が「明ぼの楼」の跡地である。
坂道の傍らには、かつて「明ぼの楼」があったことから、この坂を「あけぼの坂」と呼ぶという区教育委員会の杭が立っている。
橙黄子は記す。
『小さな階段を上がると二間つづき部屋があつて、其処に風生氏を中心とした五六人が寒さうに打ちかたまつて火鉢を抱き外套を着たまゝ話をしてゐる。その話はたけし氏の病状を案じる話なので、空気陰鬱、いつもの武蔵野探勝会の如き景気がない。』
虚子が不在で、たけしが病気、しかも日本を揺るがす大事件の勃発では踏んだりけったりであろう。なお、虚子は第七十二回「暖依村荘」から、たけしは七十六回「善福寺池」から復帰し、さらに言えばパリ留学から帰国する作曲家の池内友次郎は七十四回「野路の秋」から探勝会に復帰することになる。
さて、「明ぼの楼」(池上1ー19ー35)は、明治十九年に発見された鉱泉によって賑わった。当時は芝の紅葉館、鮫洲の川﨑屋と並んで有名であったという。
田山花袋の『東京近郊』では『丁度その台地の崖に凭ってつくられてあるような形になっていた。此処の梅も見事だ。門から爪先上りに登って行く感じも好ければ、長い高い階段を登って眺望のよい室に導かれて行く心持もわるくない。』と書かれている。
武蔵野探勝にもこういう発言が出てくる。
「此家が昔のまゝに在るなんて実に愉快だ。此処はねエ君、僕等が若い頃今の箱根とか熱海とかいふところのやうに、一泊に東京から遊びに来たものなんだよ。」これは、麻田椎花か赤星水竹居の発言であろう。東京(多分東京駅)から大田区へ一泊で遊びに行くという感覚も、すでに武蔵野探勝当時でさえ考えられなかったことと思われる。「明ぼの楼」がほどなく廃業となるのは、あまりにも近郊でありすぎたためだったのだろう。
最後に、この日の句について述べておかねばならない。次のような風生の句が物議をかもしたというのである。
梅寒しゝゝゝゝ群雀      風生
(うめさむしちょんちょんちょんちょんむれすずめ)
この句の梅は、花袋?が「見事だ」と書いた「明ぼの楼」の梅園のものだろう。
橙黄子は記す。
『作者曰く「此句はきつと先生には見出されるんだがねエ」と。すべての作品に対する問題の解決は先生の御帰朝を待つことにしよう。』

「武蔵野探勝」との出合ひ