武蔵野探勝を歩く2「多摩の横山」

1、句会場について

虚子一行は、昭和5年9月30日に第2回武蔵野探勝「多摩の横山」として百草園を訪れている。
記録の水原秋櫻子が、冒頭に記したのは、吟行地ではなく、句会場となった宿についてであった。
『立川駅に遠からぬ多摩川の岸辺に、「丸芝」といふ鮎漁の宿がある。僅かの庭樹立の向ふはすぐに広い磧であるが、九日の月の暗い光に、川瀬はただ淙々の響を立ててゐるのみである。然しその磧を越えて、極めて模糊とはしてゐるが、多摩の横山が東に向つて連つてゐる姿が見える。我等は今その山を下つて、一里の道を自動車に運ばれて此の宿に着いたのだ。』
丸芝は、現在の立川市錦町五丁目、日野橋のすぐ上流にあった「丸芝館」である。
立川市歴史民俗資料館の「多摩川の漁法と漁具」には、『明治時代、立川近辺には鮎料理の料亭が3軒ありました。(略)多摩川の鵜飼は、江戸時代にはすでに行われていました。昼間に徒歩で行う徒歩鵜(かちう)という方法で、かがり火をたいて夜に行う長良川などで行われている方法とは異なっていました。』とされており、武蔵野探勝当時は、有名な鮎漁場であったことがうかがわれる。

2、「多摩の横山」の謎

吟行地が「多摩の横山」に選ばれたことには、何の不思議もない。
第一回「武蔵野探勝」の吟行地が府中の大國魂神社だった理由は、虚子がその欅並木を武蔵野の風景の典型だと考えたからであった。
同様の考えで、武蔵野の風景るもう一つの典型として、「多摩の横山」を第2回目の吟行地に選んだことも当然と言えば当然のことであったろう。
吟行地である「百草園」についても、今日でも梅の季節には特に賑わいを見せる「京王百草園」であるので、場所を特定するまでもない。
問題は、「百草園」を出た後の虚子たちの経路である。
虚子たちは、「百草園」から高幡不動方面へ多摩の横山を下りる。ところが、この日野市の丘陵地は、日本住宅公団(現在のUR)によって大規模な住宅造成が起こなわれた稀に見る地形改変地なのである。
巨大ニュータウンの誕生によって、虚子たちが歩いた当時の道はほとんど残っていない。また、残っていたとしてもその特定は困難を極める。
したがって、今回の調査は、筆者(藤井稜雨)の推測が大部分を占めることをあらかじめお断りしておく。

3、百草園にて

秋櫻子は記す。『我等は園の北端にある掛茶屋に憩ひつつ、武蔵野の大景に見入つた。』
『秋晴や影一つなき多摩河原 霞人
その向ふは一丘の起伏さへなき平野で、雲際には関東をめぐる名山が一々それと指呼し得るまでに浮び出てゐる。即ち右からかぞへて筑波、日光、赤城、秩父の諸峰である。』
『秋晴や島とも見ゆる遠筑波 拓水
(略)眼の前を蜻蛉がすいすいと飛んでゐる。と思ふと、立川の飛行場からその蜻蛉にまがふ飛行機が舞ひ上つて、爆音高く頭の上をかすめて行く。』
当時は、立川に飛行場があり、その場所は現在の国営昭和記念公園だった。まさに眺めていた多摩川の先、北西方向から飛行機が飛来した。立川飛行場には、昭和3年11月に陸軍航空本部技術部が所沢から移転、4年7月には日本航空輸送株式会社が旅客輸送を開始、5年3月には石川島飛行機製作所が月島から移転して来ている。
立川が軍都として発展している途上にあることがほんのりと見て取れる。

4、虚子たちの道

秋櫻子は記す。『四時半になつて山を下ることにした。一度登つた道を帰るのも興がないので、案内者を雇つてちがふ道を行くことにした。案内者といふのは三人の可愛らしい小娘である。我等はこの小娘を先頭にして、木犀の香る後庭から丘の背へ登りはじめた。』
現在の百草園には、丘陵の尾根筋への出入口はないので、早くも虚子たちの道を追うことが出来ない。しかし、虚子たちが尾根筋を歩いたことは間違いないと思われる。
『秋晴や椢をはじき笹をわけ 虚子
と詠まれた先生を先頭に、
秋山のはげし所に登りけり 普羅
と詠んだ普羅氏を第二陣に。
やがて木立が切れた所に出ると、今までと反対に西南に亘る景色が展けた。富士は惜しいことに雲が立つてゐたけれども、大山や丹沢の山塊は手にとるやうに近かつた。』
現在の百草園の入口から、虚子たちが歩いたであろう尾根を右手に見上げながら百草園通りを進み、百草八幡宮の社務所の下を右に曲がる。
すると「朝日山緑地」という看板が設置されていて『山の峰には小さな祠が祀られていた。そこから富士山がよく見えたという。』と書かれている。
もちろん、秋櫻子の景色が「朝日山緑地」だったとは言い切れない。ただ虚子たちの道が尾根の南側になったらしいとは察せられる。
人の歩く山道は、獣道と違って基本的に尾根筋についているものである。そして尾根筋は通常、県境市境など行政の境界になっていることが多い。そこで、筆者はその道が字の境、すなわち百草と三沢の境にあったと仮定してみた。
すると、道は三角点公園の交差点から市立七生緑小学校の真中を突っ切り百草台自然公園の最高点を通っていることになる。
秋櫻子は『(西南の)その方面へ下る道もあるけれど、先を急ぐ我等は、それ等の山に別れをつげて、やはり多摩川へ向ふ谷へ下りて行つた。』としているので、この公園のピーク付近から多摩川方面へ下りたのではないかと思われる。
地図を見ると、百草方面から高幡不動へ下りる道は3本ある。そのうちの一つは湯沢橋から川崎街道の百草団地入口交差点へ下りる道だが、この道は広い道なので虚子の道とは思えない。
もう一本は、八幡神社の東を通る道だが、これは遠回りになり『先を急ぐ我等』が通ったとは思えず、また、わざわざ?案内人を付けた意味がない。そこで、八幡神社の西を通っていく道だろうと見当をつける。
秋櫻子は記す。『小娘は若干の礼を貰つた嬉しさに、幾度か頭を下げて別れて行つた。我等は有名な不動尊のある高幡の町を目指して歩いた。道の左右は稲田と桑畑である。と、道端に堀抜きの水が湧き出て流れてゐた。きれいな水であつた。然しそれよりも驚くべき事はその傍の家の庭に大きな堀抜きが噴水のように立ちのぼつて見えたのであつた。「素晴らしいものだ」と言ひ合つて眺めてゐると、「どうぞ御這入りなさつて御覧下さい」と、お内儀さんらしい人が自慢げに案内して呉れた。』
高幡不動へ向かうには川崎街道に出なければならない。川崎街道へ出るまでの下り道は切り立った崖であり、道の左右に稲田と桑畑はあり得ないので、すでに川崎街道へ出てからの描写と思われる。
そして、この噴水のように立ちのぼる堀抜きを地元の人たちに尋ねまわると、現在のファミリーレストラン「ガスト高幡不動店」(三沢2-33)の裏手にあったというのである。
虚子たちが下りてきたと推定した八幡神社の西の道が川崎街道とぶつかるやや高幡不動側に「ガスト高幡不動店」があるので、八幡神社西の道との推定は、秋櫻子の記述と矛盾していない。
念のために、他の下山ルートに沿って、件の堀抜きについて聞いて回ったが、それを記憶している人は皆無だった。

5、虚子の附記

秋櫻子の記録に、虚子はわざわざ追記を付している。
『京の東山は柔かい線を紫の空に描き出してゐるので有名だが、これはどこ迄もなだらかな単調な線を武蔵野の西に横たへてゐる。多摩の横山と万葉の歌人が此の丘を呼んだ心持も受取れる。』
虚子が武蔵野探勝を始めるに際しての思いを、あらためて付記せずにはいられなかったのだと思われる、虚子にとってはそれほどに思い出深い吟行だったのだろう。

武蔵野探勝を歩く24「竜淵寺」

1、参加者のこと

昭和7年7月3日、虚子一行は熊谷を訪れた。
星野立子は、こう記している。『上野を九時五十分発の小山行の汽車は、そんなに混んでゐなかつた。汽関車の次の箱にみんなゆつくりと腰かけることが出来た。大阪から、先月の末頃に上京された青木稲女さんが加はり、かならず顔の見える風生さんが御病気で欠席。熊谷に着くと、丁度来熊中の耿陽さんをはじめ、一宿、秀峰、露文、啓翠、一路、鴨石の熊谷の方々が出迎ひに来てゐられた。』
また、末尾のところでは『この日は凡て熊谷の凌霄花発行所の世話で、特別誂の名産五家宝のお土産を銘々がかかへて、汽車に乗り込んだのは五時二十分頃であつた。』としている。
まず、岡田耿陽の『丁度来熊中』の理由は、生業の生糸の買い付けでしばしば熊谷を訪れていたからである。そして、その際定宿としていた田島屋(現在の八木橋百貨店の近くに所在)の主が田島一郎、すなわち一宿である。
熊谷俳句会のリーダー的存在である一宿や一路(柿原清二。農商務省退職後、絹物問屋「柿原商店」を継ぐ)は、昭和2年に「熊谷ホトトギス会」を結成、俳誌「コスモス」を発行していた。この「コスモス」誌が、昭和6年には「凌霄花」誌となっていたため、立子は『凌霄花発行所の世話で』と述べているのである。ちなみに「凌霄花」の雑詠の選にあたっていたのは耿陽である。
昭和2年に、すでに熊谷ホトトギス会を結成していたことからもわかるように、虚子たちはこの時初めて熊谷に来たという訳ではない。
大正13年10月には、たけし、一水、夏山、青邨らが茸狩りをし、一宿、一路らとともに福田鉱泉に行き、その後星渓園で句会を開いている。また、大正15年2月には虚子を迎えて星渓園で記念句会を盛大に催した記録が残っている。
さらに言えば、熊谷の隣の行田には川島奇北がおり、一宿らは奇北の指導も受けていた。
こうした関係性の深さがあればこそ、『特別誂の名産五家宝のお土産を銘々がかかへて』が腑に落ちるのである。

2、吟行地「星渓園」

立子は記す。『二台のバスは熊谷の町を通り過ぎて、星渓園といふ庭園を見るために途中で止まつた。』
ここは、熊谷宿の本陣竹井家を継いだ竹井澹如(たんじょ)が造った回遊式の名園である。湧き出る水が玉のように美しいことから「玉の池」と呼ばれる泉がある。
『苔をふみ泉をめぐるわれ等かな 夢香
 はつきりと鯉の見えをる泉かな 露文
 白扇を使えばうつる泉かな たけし』と言った句が作られている。特に、山口青邨は星渓園が気に入り、その後も何度も訪れており、昭和25年11月の句会での『夕紅葉鯉は浮くまま人去りぬ』という句が句碑として立っている。

3、本来の吟行地「竜淵寺」

立子は記す。『再びバスに乗つて、細い田圃道をゴツトンゴツトンと又小十分程。やがて一むらの杉木立の中に藁葺の大寺が隠見して見える。其が今日の目的地である竜淵寺である。』
竜淵寺は行田の忍城主であった成田氏の菩提寺である。
『本堂の裏座敷で中食のおべん当を開いて、運ばれた鯉こくに満腹して、思ひ思ひに外に出た。』
『往きがけにも気はついてゐたのだが、一軒の百姓家では、老夫婦が麦を打つてゐるのがあつた。断つてみんなその庭に這入らせてもらふ。
麦打つや蝶々とべる花葵 虚子
子の頭そつてをりけり麦むしろ 拓水
麦うちの埃の中の花葵 あふひ
麦打の家もありけり農休み 啓翠』
さて、現在の竜渕寺(現在では「渕」と表示)を訪ねると、鐘楼の手前に虚子の句碑が立っている。
『裸子の頭そりをり水ほとり』という句碑である。
これは、先の小林拓水の句「子の頭そつてをりけり麦むしろ」と全く同じ景であり、虚子がこの百姓家の庭で作った句である。
非常に似た景であったために、虚子は拓水の句を取り、自分の句は取らなかったのであろう。
この百姓家は、竜渕寺の参道を出てまっすぐ進んだ川べりの左側、秋元家である。
私(稜雨)が最初に訪ねた時にも、この裸子であるHさんはお亡くなりになっていて、お話を伺うことが出来なかった。
ただ、ご住職からHさんが8歳の夏のことであり、ご本人はもちろん武蔵野探勝で自分のことが詠まれているなど知る由もなかった。
ましてや、回りまわって、昭和46年5月に立派な句碑として、ご自分の日常の姿が残されたことも知らなかった。
御存命であれば、是非ともご心情を伺いたかったと思うのである。

武蔵野探勝を歩く25「武蔵水郷」

1、なぜ「武蔵水郷」だったのか

昭和7年8月7日、虚子一行は「武蔵水郷」と称した吟行において、千葉県野田市を訪れている。
一行は、まず野田駅(現在の東武線野田市駅)に降り立ち、野田醤油株式会社(現・キッコーマン株式会社)の第七工場(現在の「キッコーマンむらさきの里ものしりしょうゆ館」の場所にあった)を見学をする。
記録者の山口青邨は記す。『「蠅がゐますね」「之は蠅ではありません、麹虫といふのです」野田の醬油工場を見学している時の会話である、十六リツトルの樽詰、一日五千樽を製造する亀甲万の工場である。今日は醤油会社の俳人達が案内の労を取って、水郷松伏に遊ばうといふのであるが、野田の駅から工場が直ぐなので、一寸見学することにしたのである。』
発酵工場、醤油絞り、樽詰め、容量検査など一通りの見学を済ませた後、清水公園へ移動する。
野田の町は、『折からの旧暦の七月八日で、家々には七夕竹が立てある、一行は図らざる今日の日に会して「七夕」「七夕」と言つて喜んだ。
軒並の七夕竹や野田の町 あふひ』
『清水公園の衆楽館といふ家に行く。』『ここで昼の食事をする。それから自動車に乗つて松伏に向ふ、松伏といふ処はまだあまり知られてゐないが古利根に沿うた町で―その裏の古利根の水は大閘門によつて、堰きとめられ、バック・ウォーターがずっと上流まで、まんまんとたたえてゐる―といふ処なのである。』
清水公園とは、醤油醸造家の茂木柏衛氏が建設した公園で、昭和5年5月に開園されているので、虚子たちは開園してそれほど経っていない時に訪れたことになる。公園内には聚楽館があるので、衆楽館は誤植か青邨の誤記であろう。
ちなみに、清水公園は現在でも市民や東葛地域の人たちの憩いの場であり、筆者(稜雨)も松戸市立小金小学校低学年時の遠足で初めて訪れている。
さて、午前中を野田で過した虚子一行は、いよいよ本来の吟行地である松伏に向かう。その向かった先が武蔵野探勝第25回の表題となっている「武蔵水郷」であった。
「武蔵野探勝」有峰書店版には、巻末に「探勝地名図および一覧」が付けられているが、地図にも一覧表にも「野田」が記されていない。これは一体どういうことであろうか。

2、「武蔵水郷」とは何か

そもそも「武蔵水郷」という名称が、当時はあったのかどうか分からない。
私(稜雨)は、青邨が『古利根の水は大閘門によつて堰きとおめられて』と記しているように、古利根の寿橋に古利根堰が完成して、初めて水郷と称するようになったのであり、にわかに出来上がった言葉ではないかと推察する。
青邨は記す。『船の来る間、岸に立つてあたりを眺める。(略)テントを張つたり、腰掛を置いたりして、一寸広い岸になつてゐる、田舎娘がよい帯をしめて、四五人立つてゐる。十五六人の子供等が真黒に焼けてわいわいと騒いで泳いでゐる。「かうして見ると日本人のやうじやないね」「全く土人だね」「これだから日本は水泳が強いんだ」もぐつた子供は藻をがぶつて現れる、まるで河童だ。』
『水の真中に浮ドツクがあつて、泳ぎ疲れた人が休んでゐる、「夏の村」と白く染め抜いた赤い大旗が高く水中に立つてゐる、ベーロン舟がドラを叩いで漕いで来る、(略)対岸の泳場の入口には櫓をかけて、馬鹿囃子をやつている―兎に角水も陸も賑やかである。
葛飾や涼み場にある馬鹿囃子 椎花』
刊行したばかりの「松伏町史 資料編 近代・現代」(令和5年3月24日)には、「武蔵水郷夏の村」のパンフレットの写真が紹介されている。
資料には、昭和7年7月の「武蔵水郷夏の村開設式挙行案内」が掲載されており、その主催者の中に、当時の埼玉県醤油醸造組合頭取・石川仁平治氏や野田の茂木邦吉氏らが名を連ねられている。石川氏は、野田醤油株式会社設立の8家の一人であることから、この「武蔵水郷夏の村」という当時としては画期的なレジャーランドの誕生に、野田醤油が大きく関わっていたことは間違いない。
見方を変えれば、7月10日に開園したばかりの「武蔵水郷夏の村」の宣伝に、ホトトギス社も一枚加わってもらおうということであり、虚子たちもそれに乗ったとみるのが自然である。
青邨が、わざわざ武蔵野探勝の記録の末尾に『この吟行に於て野田醤油会社に色々御世話になつたことを特記して感謝の意を表する』と記したように、この第25回武蔵野探勝そのものが、野田醤油の全面協力において実施されたものであることから、そんなことを想像するのである。言うまでもなく、吟行が宣伝に使われること、宣伝に乗って吟行を行うことは悪いことでもなんでもなく、むしろ武蔵野の一面を広く紹介し、俳句界において吟行を活発化させることにつながれば大いにプラスになると解される。

3、参加者

虚子、青邨、あふひ、花蓑、夏山、まさを、椎花、蚊杖、拓水、京童、つる女、白山、風生、たけし、東子房、立子、奈王。このほかに、間違いなく野田醤油の社員である人達が加わっているはずなのだが、どなたかは調査できていない。

4、句会場「石塚屋」

青邨は記す。『遊船が来た、一同乗る、氷、ビール、塩煎餅などが用意されてある、野田の人達の好意である。』『船は上流へと漕ぎ上る、両岸のうつり変る景色を眺めて行くのは嬉しい、右手は松伏の町筋である』『やがて船は今日の披講場である石塚屋の裏に着く。船を下りて上る。』
この石塚屋は、『割烹石塚家』『和風レストラン うなぎ以志津香』として、現在も営業している。虚子が武蔵野探勝の中で句会場として使った店が現在も残っていることは非常にうれしい。
石塚家は、古利根の堂面橋近くにある。現在は古利根に面していない松伏2243が所在地となるが、店内から駐車場の向こうに古利根に沿って走る主要地方道春日部松伏線を行き交う自動車の流れが見える。
『二階に三十人も坐つたら狭い位であつた、日はもう落ちかかつてゐるが木の間を通してさし込む火箭のやうな日射は鋭かつた、先生は泰然としてその西日を背負つて句を書いて居られる。帰りは越ケ谷へ出て、そこから東武線で一路浅草へ向つた―ここに遊ぶには之が順路である。』
青邨の記録の締めくくりも何となく武蔵水郷へ誘っているようである。

武蔵野探勝を歩く1「欅並木」

1、虚子たちはどのように来たのか

虚子の記録は町を描写している。
『大國魂神社の前に、府中の町と直角をなしてをる馬場があって、其馬場の両側に、今は保護天然物になつてをる沢山の欅並木がある。五六町の間も続いてをつて頗る見事なものである。』
ここでいう「馬場」とは何か。一応、現在の馬場大門けやき並木の通りと解釈する。
さて、虚子一行はどうやって府中に来たであろうか。
府中本町駅も府中駅もすでに開業していた。特に京王線は昭和3年には新宿から北八王子まで開業していた。しかし、おそらく虚子たちは乗合自動車できたものと思われる。
それは次の二つの記述である。
『欅並木の馬場は中央線の国分寺駅からこの府中町に往復する乗合自動車が通る路になつている』
『初め街道から反れて少し這入つたところには人家が並んでをる。氷屋とか理髪店とかいふものに交つて警察署もある、やつちやばもある。(略)しばらく行くと、人家がもうなくなつて欅並木の左右は大方畑になつてゐる。丁度電車の踏切がある、その踏切を越えたあたりから物静かになつて心が落ち着いて来る。』との2つの記述である。
二つ目の記述の『初め』は、最初に街道のどこか地点からどこかの道に入ったことを示している。
氷屋は鎌内燃料氷店と思われ、現在の宮西町2丁目4-3アイスバーグビル。理髪店は無くなってしまったが同町2丁目にあった榎本理髪と思われる。すると虚子の入った道は旧甲州街道と思われる。
また「やっちゃば」が、現在の多摩信用金庫府中支店の場所にあった青果市場だとすると、「踏切」は現在の府中駅のガードということになるので、府中駅から歩いたとするとこのような記述にはなり得ない。旧甲州街道を自動車できたと考えるのが自然である。

2、参加者

虚子の記録による俳句から、風生、杣男、野菊、たけし、立子、まさを、水竹居、秋櫻子、蚊杖、あふひ、椎花、京童、夏山、吉人、越央子、花蓑、夢香、友次郎、霞人、煤六、雨意、すすむの23人と安養寺の文堂住職、そして籐椅子会の調査によって榎本野影住職、その弟さんの榎本武次郎氏の26人まで確認できる。

3、籐椅子会の調査とその後

籐椅子会の記録によれば、府中の福井草一氏が、たまたま西蔵院(是政3丁目)を訪ねた折、本堂左にあった展示ケースのなかに武蔵野探勝の句会での短冊があることを発見したという。
大変感激し、福田氏は後に、この時の虚子の句「秋風や欅のかげに五六人」の句碑を、大変なご苦労の末に立てた。この句碑は、かつて青果市場があった宮西町1丁目5-1付近の欅の下に立っている。
また、当時の句会に参加した煤六こと上林白草居の句碑が安養寺に立っている。煤六と文堂氏の間にも何かつながりがあったのかも知れない。
さて、私も非常に気になっていた句会短冊を拝見するために西蔵院を訪ねた。ところが、本堂脇にあるはずの展示ケースが見当たらない。
今では何処へしまい込んだか分からないとのことであった。武蔵野探勝の吟行から93年、籐椅子会の吟行からでさえ39年たっているのでは当事者・関係者はほとんどお亡くなりになっている。やむを得ないことと思う。
私は「もし見つかったらご連絡を」とお願いして辞すしかなかった。

武蔵野探勝を歩く0

1、虚子が武蔵野探勝を始めた理由と吟行地の選定

武蔵野探勝を始めるにあたり、虚子は第一回「欅並木」の中で、こう語っている。
『京洛の景色のみあこがれて、東京近傍にも亦た関東特有の風景があることを忘れたやうなものがあることは慨はしいことである。先づ第一番に閑却してならぬものは武蔵野である。』そして、武蔵野特有の景色は『京洛近傍の天地には見ることの出来ない趣である。』とした。
そこで『吟行会を催して、其等武蔵野の俤を尋(ママ)ね、句を徴し、文を綴つて見ようと思ひ立つた。さうして、先づ一番に「欅の並木」を題材にしようと思ひ立つた。』
これが武蔵野探勝を始めた理由であり、その第一回目を欅並木が有名な府中の大國魂神社にした理由である。

2、参加者

ホトトギスの主要メンバーの一人である安田蚊杖が幹事役となり、坊城家出身の本田あふひが世話役という形で、百回の吟行が行われたが、ホトトギスとは無関係の人もいたことが確認されている。
たとえば、第一回「欅並木」では、披講場所となった叡光山安養寺の住職。この方は文堂という俳人なので、ホトトギス関係者であることが想像される。むしろ、この方がいたからこそ虚子は府中を吟行地にしたのかも知れない。
また、「武蔵野探勝」を丹念に調査し、吟行会を行っていた「籐椅子会」(野村久雄会長)によれば、西蔵院の榎本野影住職とその弟、榎本武次郎氏も参加されたという。この二人は安養寺住職から吟行会開催を教えてもらった句友だと思われる。
このような事情から、それぞれの吟行会の参加者を確定するのは残念ながら困難である。

3、武蔵野探勝調査の再スタート

すでに、本ホームページ「武蔵野探勝を歩く」には、6回「寒鮒釣のゐる風景」、12回「古利根」、16回「浦安」、32回「六郷堤」、56回「近藤邸雛祭」、64回「全生病院」、68回「明ぼの楼」、78回「曽我の里」、79回「越ケ谷の梅見」、100回「鶴ヶ岡八幡宮」の9編を書いたが、いよいよ8月14日をもって残る91回の再調査をする。
そして、極力、虚子たちが吟行を行った同じ月、同じ場所に私も立ち、ホームページを更新していきたい。
その記念すべき第一回は、もちろん府中の欅並木としたい。

※写真は蚊杖とあふひの短冊。「前の人を追ひ越しもせず初詣」「初冬の中禅寺湖を来て見たり」

下総日常探勝8

俳句仲間の唐鎌良枝さんから御著書「悲しき飲んだくれ」をいただきました。
シベリア抑留者であるお父様を見つめなおした、非常に中身の濃い御本でした。
私もかつてシベリア抑留者の方々や北朝鮮の日本人妻救済活動を続けていらっしゃる方々からお話を伺ったり、交流させて頂いたりしましたので、あらためて心の奥底にずしりと来る御本でした。
読み進めていくうちに、今では頭の片隅に追いやられていた若き日のどうしようもなくやるせない感情が湧き上がってきました。
貴重な御本を賜り、本当に有難うございました。

下総日常探勝7

「沖」顧問の杉本光祥さんから俳人協会自註現代俳句シリーズ『杉本光祥集』をご恵送いただきました。
杉本さんは登山家でもあり、私も杉本さんの山の俳句を楽しみにしている一人です。
感銘した御句に付箋を入れていくと、瞬く間に付箋だらけになってしまいました。
松の木になりきつている油蟬
そそり立つ峰に雲湧く岩桔梗
焦点のピシッとあった極小世界から雄大な山岳美まで。思わず魅せられてしまいます。

武蔵野探勝を歩く12「古利根」

 一、春日部と俳句
 虚子一行は、昭和6年7月19日第12回武蔵野探勝会「古利根」(佐藤漾人記)で埼玉県春日部市を訪れている。昭和初期の粕壁(当時は粕壁と表記)は俳句が盛んであった。
 旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)に関する資料をみると、当時の職員室には投句箱が置いてあり、作句しない者は職員会議にも出られない雰囲気であったという。
 粕壁中学の教員であった菊地烏江、小島十牛、飯塚雨村、石井白村らが句作の中心だった。石井白村は万葉集の英訳で名を馳せ、後に青山学院大学で教鞭をとるようになる。
 そうした熱気のこもる昭和4年に加藤健雄(楸邨)が同中学に赴任してくるのである。楸邨が同僚たちの感化を受け俳句の道に入るのはもはや時間の問題であった。昭和6年には俳句を始めたとされている。
 さて、虚子たち一行が春日部を訪れたのも昭和6年である。楸邨がこの吟行に参加していたのかと言えば、武蔵野探勝は、むしろ虚子が参加者を制限しており、俳句を始めたばかりの者が参加する余地はなかったと思われる。
 一方、当時の春日部での俳句界の雄は、何と言っても水原秋桜子である。
 今でも春日部駅近くの粕壁2-5-1に当時「粕壁医院」と称していた「安孫子医院」があり、秋桜子は月に二回診察をするためにここに通ってきていた。
 秋桜子来院の日は、「水原先生来院」の看板が掲げられ、粕壁の俳人たちのみならず浦和の長谷川かな女など数多くの俳人が集まってきていたという。そうした中の一人に楸邨がいたのである。

 二、「古利根」佐藤漾人記について
 漾人はこう記す。
 『行先が秋桜子さんの案内で、同君が常々我々に推賞して止まない古利根といふ』
 『先生は駅から直ぐ自動車で、御婦人連と一緒に、今日の休み場の新川に向はれた。他の多くの連中は秋桜子さんの「町の裏を直ぐ古利根が流れてゐる、いゝ景色ですよ」との言葉に惹かれ、皆秋桜子さんの後についてぞろぞろと町に這入つた。』
 虚子やご婦人たちが自動車で向かった句会場は、庄内古川を渡る新川橋の袂にある新川屋である。十年ほど前までは、息子さんが鰻屋「新川亭」として営業していたが、現在は残念ながら営業していない。
 一方の徒歩組の秋桜子たちはどういうルートをたどったのであろうか。
 『私達の通つたのは町の裏町らしかった。燕が巣かけてゐる豆腐屋があつたり、煙管を売る低い店(略)軒先に小さい絵馬をかけてある荒物屋などもあつた。(略)私達が町裏から直ぐこの古利根の上に横はつて居る新川橋を渡る時(略)次の川下のかす賀橋まで下つた時分』
 ここで漾人の書く『町裏から直ぐ』の『新川橋』という橋はない。これは句会場である新川橋からの勘違いで、実際は新町橋だと思われる。そうだとすると、新町橋を渡るためには、春日部駅から句会場とは反対方向の左へ進み、現在の主要地方道さいたま・春日部線に出る必要がある。
 駅から左に向かい、さいたま・春日部線へ出る角に煙草屋があるが、昭和40年代の住宅地図では山崎酒店となっているので、漾人の記録にある煙管屋ではないかもしれない。
 さいたま・春日部線に入ってすぐ左手に豆腐屋(中屋豆腐店)がある。荒物屋は先の煙草屋の斜向かいにあるが、これも当時は鍛冶屋だったそうで該当しない。
 町の人に聞くと田村金物店だろうという。しかし、田村金物店は位置的には本来見える場所にはなく、もし見えたとすると当時はほとんど家がなかったのであろう。
 実は、春日部駅を左手に進み、このさいたま・春日部線へ入る少し手前を右に曲がれば秋桜子が通ってきていた「安孫子医院」がある。その道を通らずに、わざわざ遠回りの街道を選んだ真の理由は分からないが、実際に歩いてみると、街道のほうは古い土蔵あり、時代がかった店や板塀ありで、米麦などの集散地であった粕壁の姿を色濃く残していることが分かる。秋桜子はそうした粕壁の顔を見せたかったのであろう。
 さて、秋桜子一行は新町橋を向こう岸に渡ってから川下へ歩いている。
 『私達は四方の景色に見とれながら堤の上の草径を三々伍々川下に下つて行った。』
 『五六丁下つてかす賀橋を過ぎ、又五六丁にして八幡橋があつた。私達はその橋の近くにある八幡宮の森に入つて憩ひ休んだ。』
 かす賀橋は現在の春日橋である。秋桜子たちは二つ目の八幡橋でこちら岸へ渡りなおして八幡神社で休んだ。おそらく7月の吟行であるから暑さに木陰を求めたのであろう。
 『境内には春日部松樹里と刻んだ碑が建つてゐた。』この碑は今でもある。
 『やがて頼んで置いた三台の自動車が来たので、私達はそれに分乗して、あの大凧揚の行事で名高い宝珠花に通ずる街道を十分ばかり走つて新川に来た。』
 句会場までの距離からいって、さすがに徒歩組も八幡神社からは車での移動となる。
 漾人の記述について正確を期せば、新川橋へ向かう道(現在の県道321号線)は、国の無形文化財である大凧まつりの宝珠花への道ではない。それはもう一本北側を走る県道320号線である。
 いずれにせよ秋桜子が安孫子医院にて診察をしていなければこの吟行は成立しなかった。そして、虚子が訪れた同じ年に楸邨が俳句に目覚めるなど、俳人たちが春日部の町に交差した不思議を今さらながら感じるのである。

「武蔵野探勝」との出合ひ

武蔵野探勝を歩く100「鶴ケ岡八幡宮初詣」

『第百回目の探勝会』

武蔵野探勝は、足かけ10年にわたり原則として毎月第一日曜日に行われてきた。その第100回目、すなわち一番最後の昭和14年1月の第一日曜日が1日、元日であった。
昭和18年2月15日発行『武蔵野探勝』甲鳥書林版も、昭和44年11月20日発行有峰新社版も、『鶴ヶ岡八幡宮初詣』という表題で、昭和14年1月1日の開催とされている。しかし、実際に吟行が行われたのは、実は1月8日のことであった。
この点について、高濱虚子はこう記している。
『武蔵野探勝は丁度今回で百回に達するので、それを記念する為め粗餐でも差上げたいと思つたところであるから両方を合併して催したいものという考へがあつたのであつたが、元旦はそれを合併して催すほど多人数を入れる場所で空いてゐるのが鎌倉には無かつたので、止むを得ず第二日曜の八日に延期して、海浜院で催すことになつた。』
このときの句会場になった海浜院は、現在の由比ガ浜4丁目6ー1に所在していたホテルであるが、残念ながら現存していない。この武蔵野探勝から7年後の昭和21年1月に米兵の火の不始末により焼失してしまった。
武蔵野探勝が行われた昭和14年当時は、鎌倉海浜ホテルとして営業していたが、虚子は『海浜院』と記載している。これは、同ホテルの前身が明治20年に海水浴を取り入れたサナトリウム「保養所海浜院」だったことによる。虚子の吟行当時は、木造二階建て、室数54の海岸を見下ろす堂々たるホテルであった。
虚子は記す。
『一番に草庵に訪れたのは高野素十君で吹雪の新潟から出て来て、(略)つづいて見えたのが和歌山の松岡春泥、芙蓉の夫妻、大阪の大橋桜坡子君であつた。其うちに真下夫妻、たけし、夢香、今井夫妻、友次郎夫妻等がだんだん集つて来て前々日より来て居た年尾』
『昼食が済んだ時分にその霰も小止みになつたので、折節玄関に来た莉花女、沼蘋女、らく女さん等も一緒になつて一同で先づ鶴ヶ岡八幡宮に初詣した』
昭和3年当時の海浜ホテルにあった電車時刻表によると、10時に東京を発つと新橋10時5分、横浜10時37分、鎌倉11時11分となっている。女性陣三人はこの電車で来たのかもしれない。ちなみに、現在のダイヤでは東京発10時1分発で鎌倉着は11時1分であり、わずか10分の違いでしかない。現代の我々は、昭和初期の鉄道を決して侮れない。
虚子は記す。
『太鼓橋のほとりで先づ奈王君に出くはした。それから舞殿のほとりに行くと多くの人々が手帳に句を書留めてゐるのに出逢つた。(略)石段を登つて社殿の前に立つと、そこにも手帳に句を認めてゐる沢山の人が居た。』
この探勝会では55人もの参加者が確認できている。なお、故山本柊花同人会長のお父上である山本薊花(けいか)氏も参加しており、「松古りて鎌倉山の寒鴉」「沖つ波荒れ冬空は低く垂れ」という句が虚子に採られている。この二句は、句集「続 白珠」に収められている。
さて、海浜ホテルの情景はどのようなものであったろうか。
虚子は記す。
『海浜院にはクリスマスツリーもしてあれば餅花もしてあつた。(略)ホールには西洋人の団体も居り普通の客も居るのであつて、其等が入交じつて休憩しているのはどことなく春めいた感じであつた。
馬車駆りてホテルの句会と鳥総松 日ねもす
スチーム温くしコリント遊び子等はする 湘海
暖炉の火ほのぼのと靴に絨毯に   清三郎
餅花は静かラヂオは絶間なく   たけし』
 湘海の句に出てくる『コリント遊び』とは、スマートボールの原型とも言うべきもので、パチンコ台を横に寝かせた形をしている。
『食堂の用意が出来たといふ知らせがあつたので今度は食堂に変つてをるさきの披講の場所に入つてテーブルに著いた。それから私は「御機嫌よう」と言つて盃を挙げたら、水竹居氏は「万歳」と言つて盃を挙げた。一同はそれに和した。御馳走は洵に粗末なものであつたけれど、これで武蔵野探勝の百回を記念し祝福したことになり、私は満足を覚えたのであつた。』
どのような食事だったのかについて、虚子が全く触れていないのは少し残念である。
 それはさておき、第一回の昭和5年8月27日、府中の大国魂神社裏の安養寺で始まった武蔵野探勝が百回を数え、海浜ホテルの食堂にて幕を閉じた。その後のことについて、虚子はこう書いている。
『「日本探勝」と名を改め、二月から出来る限り地方の俳句会とも連絡を取り、広く日本の探勝に乗り出すことにしようと思ふ。(略)そこで其第一回に当たる二月の探勝会は尾張、三河地方の俳人諸君と共に二月十一日(紀元節)十二日(日曜)蒲郡で催して見ようかと考へて居り、目下交渉中である』
一つの偉大なる吟行会の終わりは、すなわち次の吟行会のスタートでもあった。虚子の俳句探勝はまだまだ続くのである。

下総日常探勝6

宮田正宏さんの奥様から「まつど文学散歩 第7集」を賜りました。
本当に残念なことに、宮田正宏さんは4月9日にご逝去されてしまいましたので、この「第7集」が遺作となってしまいました。
第6集までの「まつど文学散歩 総集編」は、非常に貴重な著書で、「2011.3.3」の日付で、サインをしていただいたことを昨日のことように覚えています。
このほど賜りました「第7集」には、私が情報提供させていただいた「武蔵野探勝」についての記述もあり、もっともっと宮田さんとお話がしたかったと悔やまれてなりません。
「まつど文学散歩」は松戸市の宝です。松戸市にとって、これほどの大きな貢献は宮田さん以外にはできなかったことは言うまでもありません。
本当に残念でなりません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。