CD整理の日々
このところ毎日少しずつ「CD整理」に取り掛かっています。
何年も前から買い始めましたので、膨大な量になっています。数えてみると、1箱約39枚で28箱̟̟以上。1000枚を優に超えます。
基本的に、講演、落語、演芸。クラシックなどの音楽は、別ですので毎日少しずつやらないと気が変になりそうです。はてさて、いつ頃終わるものやら。
CD整理の日々
このところ毎日少しずつ「CD整理」に取り掛かっています。
何年も前から買い始めましたので、膨大な量になっています。数えてみると、1箱約39枚で28箱̟̟以上。1000枚を優に超えます。
基本的に、講演、落語、演芸。クラシックなどの音楽は、別ですので毎日少しずつやらないと気が変になりそうです。はてさて、いつ頃終わるものやら。
1、はじめに
虚子とその一門は、昭和5年8月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。
虚子一行は、昭和6年11月1日の第16回武蔵野探勝会「浦安」で千葉県浦安市を訪れている。
今回は、その日の記録者であった池内たけしの記述を追いながら、当時の吟行の模様を再構成してみたい。
2、「浦安」への経路
たけしは記す。
『十一月一日の第一日曜日午前九時半に深川の高橋に集合することになった。高橋からは浦安行きの汽船が出る。汽船と云っても隅田川の一銭蒸気といづれ劣らぬほどのもので、狭い汚ならしい船室に茣蓙を敷いたばかりの座席と腰掛が並べられてある。私達一行はその座席と腰掛とに割り込んだ。絶えず機械の響きに体が中気病みのやうにブルブル震えた。ガソリンの臭い煙にも苦しめられた。』
当時、高橋から浦安への船便は二つの会社が運航していた。ひとつは、大正八年から東京通船株式会社が就航した定期船で通称「通船」と呼ばれたもの。もう一つは、「通船」の就航後まもなく葛飾汽船会社が出した葛飾丸という十六、七トンほどの小型の定期船である。たけしの記述から、虚子一行は葛飾丸に乗船した可能性が高いことが推察される。
一行の船は『架つている橋の下をくぐつては行く中に稍々水路の広くなった処へ来たと思ったらそれは中川の流れの注いでゐる処』を越え、荒川放水路を越え、江戸川を越える。『この川を渡ると最早東京府ではなくて千葉県に這入るのである。浦安に着く。』
浦安町誌によれば、当時の『汽船発着所は欠真間一六九三番地吉野屋で、同家地先の川岸から乗船する。』とされている。この吉野屋は、現在も猫実五丁目に船宿吉野屋として営業している。
さて、吉野屋にて下船した虚子一行が、現在の境川沿いに河口に向かって歩いたことは間違いない。
以下のような句が詠まれている。
欄干に網と蚊帳とが干されあり 拓水
蚊帳干せる橋の手すりや鯊の夕 虚子
両岸の鯊釣る中に舟路かな 青邨
鯊舟の猫実川をこぎ出づる 虚子
ただし、境川の右岸左岸のどちらを歩いたかという手掛かりはない。右岸には宝城院、大蓮寺、左岸には花蔵院などの寺社があるものの、残念ながらそれらについての記述はない。
また、虚子の句に「猫実川」とあるのは、猫実川まで足を運んだのではなく、当時は境川のことを猫実川とも呼んでいたことを意味する。
3、船橋屋のこと
たけしは記す。
『船橋屋といふ一軒の茶屋があった。其処へ一行は一先づ落付いた。茶屋と云っても海水浴場の憩み場所のやうな、ただ広い掛出しの上に茣蓙を敷いたばかりの処である。一枚の戸障子さへはまってゐない。一面の蘆原を見通して眺めはこの上もない。幸少しの風もない。浴びるやうに日が射し込んでゐる。春のやうに暖かい。』
汽船といい茶屋といい、この日の一行はここでも茣蓙のもてなしを受ける。
花蘆に埋もれて立つ茶店かな あふひ
ととのはぬ昼餉もどかし鯊の茶屋 立子
鯊の客どやどや入りぬ船橋屋 薊花
さて、いま私の手元に一枚の写真がある。
海水浴の海の家らしき前に六人の男女、男の子二人、女の子二人の計十人の記念撮影である。その海の家の柱には看板が掛かっていて、その薄い文字をよく見ると屋号は定かではないが、「手荷物御あづかり・・・」という文字が読める。そして、店の中には寛いでいる数人の客がいる。
写真の子どもたちばかりではなく、中央の壮年も裸足であり、また右の男性の着ている法被には、何となく「食堂」という文字が読める。いかにも海の家という感じである。
この写真は、「武蔵野探勝を歩く」を書くにあたり、浦安市議の高津和夫氏(故人)より提供していただいたものである。
氏によれば、この写真の茶屋は、「船橋屋」ではないが、船橋屋同様に当地において営業していた海の家であるという。
同じく高津議員よりいただいた昭和六年二月、すなわち虚子一行が浦安を訪ねる九ヶ月前の千葉県浦安町鳥瞰図によれば、汽船乗船場から海水浴場に向かって五つの橋が架かっており、その五つ目が江川橋であることが、左岸の花蔵院、右岸の東学院との位置関係から読み取れる。
そして、その先の海水浴場には「見はらしや」「浦浜屋 田川」という屋号の書かれた中に確かに「舟橋屋支店」「舟橋屋本店 佐藤」と書かれているのが確認できるのである。
すると、この船橋屋の位置を特定するには、江川橋から海水浴場までの距離がわかればよいことになる。
浦安市は、おそらくわが国でもっとも近代から現代へかけての変貌が大きかった街だろう。現在の浦安市の地図を眺めても旧市街地と新市街地との区分すら見分け難い。
それでも、船橋屋の所在地は少なくとも海楽一丁目ではないことは自明である。
仮に、鳥瞰図がほぼ正確であるとすれば、現在の猫実一丁目六番地周辺だと思われる。
4、吟行の参加者
最後に、吟行の参加者を可能な限り特定し、その俳句を紹介したい。
飯食ふや口にとびこむ秋の蠅 高浜虚子
(中略)
鯊舟の出はらひ居たる日和かな 山本薊花
以上、少なくとも18人である。
虚子とその一門は、昭和5年8月から月1度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。その第79回『越ケ谷の梅見』は、昭和12年3月7日に越ケ谷市北越谷の浄光寺で行われた。
記録者の楠目橙黄子は記す。
『東武鉄道会社から一通の案内状が来た。見ると、来る三月七日当社沿線越ケ谷梅林に御曵杖の栄を賜りたい、との事である。』
今回の吟行は、これまでと異なり東武鉄道からの招待である。観光地として越ケ谷梅林を宣伝し、沿線開発につなげたいということが同社の方針だったとしても、「ホトトギス」誌に掲載されていた「武蔵野探勝」が人気を博してきた証左でもある。
一行は、『雷門駅の改札口へ行くと、会社の案内の方が幹事の蚊杖氏と一緒に受付けに控へてゐて私達にリボンの団体徽章と各種の案内記入りの袋を渡して呉れた。(略)然も東武鉄道から社員の羽鳥、羽六両氏が東道役として同車されたりしたので、(略)一同頗る悠々大に貴賓らしく車中に納まつたものである。』
蚊杖(ぶんじょう)氏とは、武蔵野探勝の企画、運営を担当する安田和重である。
『雷門を発して四十数分を費し、駅名の越ケ谷を一つ越して武州大沢といふ駅に下車した。』
武州大沢駅は、現在は「北越ケ谷駅」と改称し、越ケ谷駅から二つ目の駅である。
『梅林を貫く路を行くほどもなく浄光院の境内に這入る。』
入口に庚申塚や梅の里 白山
梅の寺青年の居り茶の給仕 雨意
現在は庚申塚は見当たらない。また、接待役の青年も東武鉄道社員である。
『そこへ一行に遅れて参著した水竹居、風生氏等と共に新翰長越央子氏が久しぶりに我々の前に其温容を現したので皆拍手して之を迎へた。』
水竹居は赤星陸治、後の三菱地所の会長、当時は専務だったと思われる。風生は言わずと知れた富安謙次、後の逓信次官であり、『若葉』主宰である。
越央子は、大橋八郎、前逓信次官である。岡田内閣の法制局長官を任じられていたが、二・二六事件によって総辞職となり、この吟行の1ヶ月前に、林内閣の内閣書記官長兼内閣調査局長官に新たに任命されたのであった。そのことから『新翰長』と冠されたと思われる。
『不動明王と書いた札を正面に打つてある本堂の前には、うす濁りの水を湛へた池がある。その池の向ふに古梅園と刻んだ碑が枝垂梅を前にして苔さびて建つてゐる。』
残念ながら、現在の浄光寺には不動明王の札や古梅園と刻んだ碑はもちろんのこと、池も無くなっている。
池のあり紅白の梅相うつり 花蓑
袖に散る薄紅梅をあはれと見 薊花
二句目の作者である山本薊花は、『風の道』同人会長だった故山本柊花氏の父上である。
青邨の船はいづこぞ枝垂梅 越央子
山口青邨は、このとき留学のために渡欧の身であった。
『境内ばかりでなく此寺の周囲一帯が梅林であつて、面積数十町歩に亘り、水戸の偕楽園を凌ぐといふのである。』
現在は、宮内庁埼玉鴨場の北側にある越ケ谷梅林公園に当時の面影をとどめており、毎年3月上旬に行われる梅まつりでは、2万平米の敷地に約300本の梅を楽しむことができる。北越谷駅から徒歩20分ほどの距離である。
梅の下皆耕して広きかな 凡秋
凡秋は、千葉大医学部の加賀谷勇之助法医学教授。今でも千葉大学に凡秋の散歩した凡秋谷や凡秋小径、そして句碑などが残っている。
『百姓家の庭に樹幹朽ち果てた老梅が横つてゐて、その傍に紙の幟が立ててあり「此雲竜梅数百年前先祖植付之梅」と稚拙な字で書いてある。此梅が梅林中一番古い樹であらうか。』
地に伏して朽ちたる梅の瑞枝かな 橙黄子
蓆織る雲竜梅のありどころ 椎花
静かなる梅なき家や梅の村 虚子
垣間見る丸帯売りや梅の里 あふひ
雲竜梅は、浄光寺後ろの地主の一人である黒田家のものとされるが、現在では残っていない。浄光寺周辺に何軒もの黒田家があるが、私(藤井稜雨)は、それがどの黒田家かは特定していない。
『梅林の道が尽きると元荒川の堤に出る。その堤の上に稲荷を祀る御堂があつて、椿の巨樹が真紅な花をぼたぼた堂裏の土に落としてゐた。』
折り折りて尚花多き宮椿 虚子
この稲荷堂は文教大学へ渡る橋の右手前にある。巨木はないが、椿は数本植えられている。
『此堤上の景色を眺めてゐると、駅の方から慌しく自転車を走らせて駅員がやつて来た。(略)越央子に電話がかかつたといふ知らせがあつて、間もなく迎への自動車に乗つて駅に向かつた越央子氏は再び私達の前に姿を見せなかったのである。』
越央子が呼び出された理由は分からないが、ある程度の推測はできる。
2月2日に林内閣が成立したものの、政権としては極めて不安定であった。そして、この吟行の24日後の3月31日には衆議院解散、翌4月1日が総選挙の公示だったことを考えれば、解散時期について閣内での協議がなされたと考えるのが自然であろう。
また傍証としてではあるが、当時衆議院議員であったと思われる武蔵野探勝常連の大橋杣男が、今回の越ケ谷吟行に参加した形跡がない。
さて、この武蔵野探勝「越ケ谷の梅見」から61年後の平成3年3月3日、「ホトトギス」系の結社「籐椅子会」が,浄光寺周辺で吟行を行っている。
その時の記録者である三角優子氏は記す。
『池はもうないが、古梅園の碑は今も残ってゐる。探勝会の折の虚子先生の御句といふ
寒けれどあの一むれも梅見客 虚子
の句碑が昭和50年3月11日、上原恵美さんによって建立されてゐる。こじんまりとした句碑の彫は浅い。しゃがみこんでよく見ないと句碑とは分からない。(略)浄光寺の大黒様が「虚子先生の句碑をもう少しちゃんとした所に置かなければと思ひます」と申訳なさそうに言はれたことを思ひ出しつつ帰路についた。』
現在の浄光寺には、上原氏建立の句碑と、それを数回り大きくしたもう一つの句碑との二つが建っている。
新たに建てた句碑が、『もう少しちゃんとした所に置かなければ』という大黒様の応えなのだろう。
籐椅子会の記録を思い起こしながら、私は感慨深く二つの句碑に見入ったのだった。
一、はじめに
虚子とその一門は、昭和5年8月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。
虚子一行は、昭和6年1月18日の第6回武蔵野探勝「寒鮒釣のゐる風景」(山口青邨記)で千葉県流山市を訪れている。
今回は、山口青邨の記述を追いながら、当時の吟行の模様を再構成してみたい。
二、「寒鮒釣のゐる風景」の概要
青邨は記す。
『今日は流山町あたりで、江戸川べりの寒鮒釣を見ようといふのである、一行十七人、降るかも知れないと懸念した空が晴れて、まアよかつたといふ天気。』
武蔵野探勝を解き明かすとき、まず頭を悩ませるのが参加者名である。この『十七人』という青邨の記述は参加者の確定に非常に役立った。ここでまず参加者を列記しておく。
高浜虚子、赤星水竹居、麻田椎花、市川東子房、大橋越央子、奥村霞人、柏崎夢香、上林煤六、菊地まさを、小林拓水、千葉富士子、
中村秀好、本田あふひ、松藤夏山、水原秋桜子、安田蚊杖、山口青邨の17人である。
『馬橋といふ駅で下車、そこから流山までは軽便が通じてゐる。見ると直ぐそこのホームにちやんとその軽便が横づけになつてゐる、何馬力か知らないが、ジエームス・ワツトが初めて試運転をしたあの騾馬見た(ママ)ようなベビーロコである、その騾馬の背中には
十八世紀型のマシユルームの煙突をつけて、それがまた勇ましくも真黒な煙を吐いてゐる
(略)みんなは手を拍つて喜んだのである』
この軽便は、馬橋・流山間を結ぶ現在でも単線の流山電鉄であり、虚子一行が乗った当時の客車については、同タイプのものが流山市運動公園の一角に保存されている。
さて、実際の「寒鮒釣のゐる風景」の一行の方は、にぎやかに流山に乗り込んできたのであったが、次第に様子がおかしくなってくる。寒鮒釣がいないのである。そこで付近の人に尋ねることになる。
『「この辺で寒鮒釣をやつてゐるところは、どこですか」之はちよつと間の抜けた質問であらう。「さうですね、ずつと下流の方と、それからずつと上流の方でさア」之は何と要領を得た答であらう』
実に微笑ましいやり取りである。
『寒鮒釣らしい何者も見えない。風がいやに冷たいだけである。(略)眼前の蘆の中には蘆刈の焚く焚火の煙が白く揚つてゐる。みんなはすつかり落着いてしまつて、蘆刈の句を作り始めた。寒鮒釣を見る吟行が蘆刈を見る吟行に変つたことも面白いことである。』
おおらかな場面展開である。これこそ吟行の楽しさであろう。
三、武蔵野探勝「寒鮒釣のゐる風景」の俳句
(中略)
四、吟行地の推定
本稿一番のポイントである吟行地の推定を行いたい。青邨の記述の中に幾つかの手掛かりがある。以下、列記する。
(イ)『そこで町にひつ返して「矢葉喜」という小料理屋に上る。(略)私がこの家の屋号を忘れないやうにと思つて手帳に書きつけてゐると、先生が側から「流山十番地」ですよと言はれたので、成程と思つてそれも書きつけた。』
(ロ)『又さつきの道を歩いて、堤防の段々を上つて、又それだけの段々を下りて川縁に出る。渡舟守の小屋がある。矢河原渡船場 一、大人二銭、小人一銭(略)芝居の渡船場そのままの光景である。』
(イ)の記述は一行の昼食風景である。
ここに出てくる小料理屋の「矢葉喜」は、流山市流山一丁目の旧流山街道沿いにあった。残念ながら終戦後に店を閉めてしまったものの、現在A氏ご夫妻の住居として建物は一部残っている。
(ロ)の記述の矢河原(やっからと読む)の渡船場はすでに廃止されている。江戸川で残っている渡船場は、「矢切の渡し」で有名な矢切を残すのみとなってしまった。
しかしながら、矢河原の渡船場の位置を確認することは出来る。江戸川沿いに渡船場跡の標識が立っている。
矢河原の渡しは、矢葉喜よりも上流側にある。ゆっくり歩いても5分とかからない距離である。
再び青邨の記述に戻る。
青邨によると「矢葉喜」の内部はこのようになっている。
『上り端に二階の階段が口を開いてゐる、階下が板場になつてゐて』
『この家は古いつくりではあるが大変きれいに掃除が行きとどいてゐた、廊下などつるつるすべるやうに光つてゐた(略)「富潤楼」といふ煤けた額がかかつて居た。』
さて、ここで「籐椅子会」の紹介をしなければならない。「ホトトギス」系の結社であり、故野村久雄氏を中心に武蔵野探勝の吟行地を一つ一つ訪ねていた。
昭和60年3月9日付の県紙「千葉日報」に、「籐椅子会」の流山訪問の記事が掲載されている。
「籐椅子会」が、流山にて吟行を行ったのは昭和60年1月27日だったが、「矢葉喜」にて興味深い発見をしている。
それは、青邨が手帳に記した「富潤楼」という額が、実は「富潤屋」の誤記であったというのである。
私(藤井稜雨)が、A氏宅を訪ねたのは平成14年2月のことである。
青邨の描写そのままに、塵一つない清掃の行き届いたお宅で、磨き上げられた廊下が光っていた。かつて店であった土間の中央に小さな生簀が残されていて、見事な鯉が悠々と泳いでいた。
二階に上げてもらった私は、早速、問題の「富潤屋」の額を拝見させていただいた。
カメラのシャッターを切るほどに感動を新たにしたが、それ以上に感激したのはA氏ご夫妻のお人柄であった。
初対面の私を親切に応対してくださったばかりか、二月の寒風の中をお見送りまでいただき、恐縮するばかりであった。私は、思わず深々と頭を下げた。そうして、私は今回知りえたことを一人でも多くの人に伝えたいと心底思った。
流山の町はすでに冬の黄昏時であった。