昭和5年12月3日、虚子は、第5回武蔵野探勝において小金井橋を訪ねている。
一行の待ち合わせ場所は中央(本)線・武蔵境駅で、ここからタクシーに分乗して、まず保谷に向かっている。しかし、適当な吟行地が見つからず、結局小金井橋へ向うこととなった。
当日の記録を担当した赤星水竹居は記す。『小金井橋の側で皆自動車を降りた。蚊杖君が、〆切は四時、此橋を中心に此辺をぶらつくことと、一同に触れ歩いた。』
小金井橋は、当時からすでに桜の名所として知られていた。その名所への来訪客を見込んで、西武鉄道は最も近くにある駅を「花小金井駅」と命名しているほどである。一方、虚子は、わざわざ桜の季節を避けて小金井橋周辺を吟行地に選んだ。それは、以下の水竹居とのやり取りでわかる。
『虚子先生は橋を渡って南側の土手に来て居られた。私は側に行って「ここはよく昔の面影が残っていますね、名勝地として指定されたお陰でせう」と云ふと、先生は、「これでも春の花時に来ると嫌になりますよ」』
確かに、当時の写真を確認すると、狭い橋上は溢れんばかりの混雑である。なるほどこれでは吟行どころではない。
昭和40年に淀橋浄水場が廃止され、この付近の水が止まったことにより、さらに雑木が繁茂してしまった。桜も老木となったことから、現在の桜の名所は、すぐ北側の都立小金井公園に移ってしまっている。
水竹居は、いみじくも武蔵野探勝にこう記している。
『大正十三年十二月内務大臣此地を名勝保存地と指定す、と云ふ大きな掲示板が掲げてある。其の文句の終りに、此名勝地を愛護せられたしとある。これは本当に小金井の老木の桜をいたはるよい文句である』
さて、あらためて武蔵野探勝を読むと、もう一つ気になることがある。
それは、虚子たちが吟行を行う直前に、小金井橋は石橋からコンクリートにレンガを張った橋に生まれ変わっているのである。写生を基本とする武蔵野探勝会であれば、誰一人そのことに気づかなかったということはあり得ない。しかし、武蔵野探勝の句も含めてどこにも橋の描写がないのである。
こうした新しい人工物については、あえて詠まないことが、虚子はじめ当時の俳人たちの俳句的感覚であり、暗黙のルールだったのかも知れない。
さて、やがて一行は、『あふひさんと蚊杖君の斡旋で小金井橋の側の歌舞登と云ふ茶屋の二階を借りて句会は開かれた。冬枯の桜の茶屋では、二十人足らずの俄か客に部屋の掃除やら座布団を運ぶやら大騒ぎであった。』
現在の歌舞登の地は、宅配便営業所となっている。近くには、当時のレンガの橋の記念モニュメントがあり、少しばかり虚子の時代を偲ぶことができる。
小金井や桜の冬木守り住む 虚子
投稿者「藤井稜雨」のアーカイブ
武蔵野探勝を歩く17「落葉の庭」
昭和六年十二月六日、虚子一行は川越の喜多院を吟行している。参加者の一人である富安風生の記録をもとに紹介したい。
『駅を降りてから星野山無量寿寺喜多院の裏門に逢着するまで、僕等のとった道は、裏道ばかりの、とてもへんなわかりにくい道だった』
当時歩いた風生自身が『とてもへんなわかりにくい道』としているくらいなので、さらに今となっては虚子一行の喜多院への経路を確定することは難しい。ただ、『駅前の、川越甘藷の俵を積んだ倉庫の横っちょみたいなところに這入った』『女学校の寄宿舎の側を通った』という記述があり、この『女学校』は、県立川越女子高校に間違いはないので、東武東上線川越市駅を下車し、女子高のグランド脇の狭い路地に沿ってカトリック川越教会の前を通り、中央小学校の南側の道を通ったのではないかと推察する。
その傍証として、この道から東へ直線を伸ばすと、地図上では喜多院の「どろぼう橋」に突き当たる。そして、この橋の手前にブランコや滑り台などを配した喜多院公園がある。
風生も『鞦韆を揺って居る子供達。鳩に餌を撒いて居る町の小娘達』と記述しており、その他の描写でも、たとえば『ここは裏口なので、城濠のやうな深い濠に、狭いコンクリの橋が架って居るばかりである』などから、虚子たちが「どろぼう橋」から喜多院の境内に入ったであろうと思われるのである。
一方、行きが『とてもへんなわかりにくい道』だったのに対し、帰りは比較的手がかりが多い。
『帰りに通った本通りは、商業会議所があって、郵便局があって、呉服屋があって、肥料問屋があって―どうして中々、立派な町だ。』
現在の商工会議所は、かつて武州銀行だった建物に移転している。
「川越商工会議所100周年記念誌」によれば、当時の『商業会議所』は現在の市民会館の場所にあり、古くからの住民に尋ねると『郵便局』は、現在のNTTの建物のあたりにあったという。これらは松江町、連雀町の交差点から北側の中央通りに集まっており、そうした中心部を抜けて川越市駅への帰路についたのだろう。当時の川越は、埼玉で初めて商業会議所を設置するなど、埼玉県経済の中核であったことも伺われる。
むしろ、私(稜雨)が驚いたのは、『四時四十何分といふ急行の電車は、三十分とたたぬうちにもう、僕等をネオンサインの池袋駅に運んでゐてくれた』という記述である。
現在の東武東上線でも、池袋・川越市間は、急行で三十一分、快速で三十二分、準急で三十八分かかり、各駅停車にいたっては四十五分も要する。それを『三十分とたたぬうちに』とあるのは、昭和初期にしては相当なスピードと言わねばならない。
当時の急行がどこの駅に停車していたのかは分からないが、昭和十六年版「大東京案内図」(旅行案内社)によれば、池袋・川越市間は十八駅。現在の池袋・川越市間は二十二駅である。現在の東武東上線快速が停車する七駅よりは少なかったであろうことは間違いない。
さて、喜多院は奈良時代の創建と伝えられ、数多くの重要文化財を擁する名刹である。今日に至るまで多くの俳人や俳句愛好家が吟行に訪れていることから喜多院そのものの紹介は割愛する。
最後に、当時の虚子一行の句を紹介して筆をおきたい。なお、4句目の山本薊花氏は、私の所属する結社「風の道」の故山本柊花前同人会長のお父上である。
落葉踏む音と小鳥の声とかな 高浜虚子
山茶花の葉にべつとりと鳥の糞 鈴木花蓑
蕭条と枝垂桜の枯れにけり 山口青邨
一人は世話しき様の落葉掻き 山本薊花(「風の道」山本柊花元同人会長の父上)
永く居て薄き秋日にあたたまる 中村草田男
落葉池時々水のふるへ居る 星野立子
茶畑の落葉もつともはなはだし 高野素十
散紅葉深きところに踏み入りぬ 富安風生
玉垣の中に落葉を焚きにけり 大橋越央子
かみゆいとある看板や冬木宿 市川東子房
ちんどん屋師走の街を踊り来る 赤星水竹居
武蔵野探勝を歩く4「雑木林など」
1、はじめに
虚子とその一門は、昭和5年8月から月1度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行は昭和14年まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。
昭和5年11月9日、第四回武蔵野探勝は埼玉県新座市の金鳳山平林寺で行われた。
その吟行記録に、富安風生が『雑木林など』という表題を付けたことからも、虚子が武蔵野らしい景を求めて訪れたことが分かる。
ちなみに、新座市立中央図書館前には国木田独歩のブロンズ像が置かれている。
2、平林寺へ
風生は記す。「武蔵野は今、秋の景色から冬の景色へ装ひをかへようとしてゐるのである。さういう時分の風物を目当に、第四回武蔵野探勝吟行が催ほされた。大体、東上線膝折駅から一里許りを隔てた野火止といふ邑の名刹平林寺を中心とする計画であつた。
日曜。朝の程小雨。午前十時、池袋駅に集合するもの、先生をはじめいつもの顔触れ約二十名。
膝折から自動車を走らせる。
川越街道から岐れて真直な道が十余町。自動車は平林寺の門のところで止る。」
膝折駅は、現在の朝霞駅であり、この吟行の2年後の昭和7年5月10日に改称される。
虚子一行は、平林寺境内に入っていく。
鐘楼、庫裏、本堂、山門、総門をめぐる。本堂の前の庭の大銀杏を見上げる。境内を貫き走る伊豆堀の清流を眺める。
しかし、虚子はこう言う。
「『こんなところにゐては俳句は出来ませんね』
さつき銀杏の落葉の降る下で先生が誰かを顧みて言つて居られた。余り好い気持になり過ぎると心が緊張しないから却て句が纏らぬといふことと思はれる。弁当を済ますと、一人の坊さん―俳号を俳禅寺と呼ぶ、ここから二里許り隔つた寺の住職―が今日折角来てくれての案内で、そのあたりを少し歩くことにした。名を聞いた丈でも、何はともあれ訪ねなくてはならぬ業平塚を先づ志す。」
案内がいるのでは境内を回らざるを得ない。しかし、結局は「先生のお話で披講はこの寺を借りるよりも、どこか附近の百姓家をでもといふことになつた。そしても少し武蔵野の土を踏みながら句想を纏めるがよからうといふことになつた。さつき来た門前の道をぶらりぶらりと川越街道の方へ帰る。」
3、句会場へ
句会場の場所は、風生の記録に明示されている。
「百姓家などという風ではなく古い土蔵をもつた土地の旧家、新井忠次郎氏方の街道に面した座敷を借りて、形の如く披講を始めやうとする頃、どんよりとした夕方の空がぽつりぽつりと時雨をこぼし始めた。」
新井氏宅は、現在の野火止7-11であるが、平成の前回調査の時には砂利を敷いた更地だったが、今回調査(令和5年11月21日)では、「東京ガスライフバル石神井 新座店」という営業所事務所になっていた。そして、その奥は「新座冶金株式会社」だった。
この新井忠次郎氏宅は、現在の県道109号線沿いにある。この県道を歩いてみればすぐわかるように、大きな屋敷や屋敷林が目に飛び込んでくる。まさに当時の川越街道が県道109号線なのである。平林寺の総門を出て左へ。現在の川越街道を通り越えてしばらく行けば、この旧川越街道である。交差点には立派な茅葺屋根の家があるのですぐに知れる。
この交差点を左折してほどなくで新井宅となる。
また、念のため東京日日新聞で当日(11月9日、日曜日)の天気予報を確認すると「北東の風曇り小雨」と書かれてあった。
さて、風生は記録の締めくくりにこう書いている。
「披講が済んで帰りの自動車に乗る時分は、かなり大降りになつてゐた。雨にぼやけたあちこちの家の灯火が木蔭になつて隠れたり又現はれたりする自動車の中で先生は言われた。
『やつぱりあの土手に休んでゐた時が一番気持がよかつたですね』」
虚子の言う『あの土手』というのは、虚子たちが平林寺を出て川越街道へ向かい、「道の片側に沿ふて伊豆堀が流れてゐる。堀のへりは落葉し尽した桜並木である。堀を境して雑木林。また道の他の側は畑―甘藷蔓をたぐねてある畑、大根の畑、枯れかかつた桑の畑なんど。」
「竜胆はかくして枯れて行くべきか 蚊杖
路落葉楢の葉といふ栗といふ 霞人
われわれはかういふ雑木林の眺めを恣にしながら草の土手に腰を卸して休んだ。衾のやうな柔かい土手の草は美しく紅葉している。
腰下ろす末枯草の暖かさ 虚子」
「われわれはここで再び折詰を開いた。そしてこんなこともして打ち興じた。
末枯に餅投げ食ふ遊山かな 虚子
みんながのんびりといい気持であつた。村の娘が自転車を下りて廻しながら恥かしさうに前を通つた。風呂敷を矢筈に背負つた媼さんも通つて行つた。」
平林寺総門を出て、新井氏宅に向かう道程で土手のある場所は、この平林寺沿いの野火止用水の土手以外にない。
実際に、歩いてみると、ちょうど現在の新座市役所の向かい側の辺りから、まさに「腰を卸して休」みたくなる程度の高さとなる。
適当に斜面となっており、厳しい修行の場である禅寺・平林寺の雰囲気とは、比べようもなくのんびりした草の土手であったろう。
かくして風生は、平林寺を訪ねながらも、その吟行記録の表題を「雑木林など」とした。その風生の思いが分かるような気がするのである。
下総日常探勝15
11月3日は、松戸市文化祭俳句大会でした。
運営ボランティアの一員である私としては、無事に終わってホッとしています。
大会自体は、比田誠子松戸市俳句連盟副会長から短冊をいただくことができ、新津黎子幹事から特選をいただきましたので大満足です。
しかし、「なるほどこういう句もあるんだ」と、目を開かせていただけたことが何よりでした。
運営にご協力いただいた皆様に心から感謝いたします。
なお、特選に選んでいただいたのは
「貝塚の貝殻微塵冬田打」
「石垣の石に刻印鷹の空」でした。
下総日常探勝14
10月28日、母校の松戸市立小金小学校の創立150周年記念式典が行われました。
卒業生からのビデオメッセージで、トヨタ自動車の佐藤恒治社長が昭和57年の卒業生だったことにはびっくりしました。
今朝は、早速記念品のマグカップで珈琲をいただきました。
10月29日、流山市文化祭俳句大会に参加させていただきました。
上位入選にはほど遠い結果でしたが、最後の最後で特選句賞をいただくことが出来ました。
流山俳句協会の大会では、毎回何かしらの手作りの品をいただきます。参加するたびに心温まる思いです。
作品は「どんぐりは十円松ぼつくり百円」
下総日常探勝13
10月15日(日)に、第65回千葉県俳句大会が開催されました。
写真は、受付設営中の千葉県俳句作家協会役員です。
あいにくの雨により、当日の兼題「月」の投句者は52名にとどまりましたが、土肥あき子先生の講演「月の力」にぴったりの兼題となりました。
私も応募句、当日句とも佳作でしたが、ここでの紹介はちょっと出来かねる作品でした。
松戸市文化祭の俳句大会は11月3日に森のホール21で開催されます。
こちらも無事故の運営に当たりたいと思います。
武蔵野探勝を歩く3「手賀沼」82「さみだるる沼」
一、はじめに
虚子とその一門は、昭和5年8月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続き、その回数はちょうど百を数えた。
虚子一行は、昭和5年10月8日の第3回と昭和12年6月6日の第82回に手賀沼を訪れている。武蔵野探勝のなかで同じ場所で2度吟行を行っているのは手賀沼のみである。
さて、第3回の手賀沼吟行の記録は、池内たけしによるものであるが、この記述には幾つかの不明点がある。それらは、再訪の第八十二回の大橋越央子の記録によって解き明かされる。
こうした点を中心に紹介したい。
二、第三回「手賀沼」
池内たけしは記す。
『上野から常磐線の汽車に乗つて一時間ほど行くと我孫子駅に着きます。此処から手賀沼の畔りまで五六町ばかり歩けばよろしいのです。道の半ばも行くと沼が蘆叢の向ふに見えて来ます。(略)沼辺に小料理屋がありました。(略)私達は十月八日の午後不意にこの小料理屋あびこ園を襲ひました。』
このときの句会場の小料理屋「あびこ園」は、残念ながら現存していない。しかし、『五六町ばかり歩けばよろしいのです。』という記述から、虚子一行が駅から沼へまっすぐ向かったであろうことと、この「あびこ園」が現在の手賀沼公園前の交差点先付近にあったことが推察される。
むしろここで不思議なのは、手賀沼という遠方での吟行にもかかわらず『十月八日の午後』というあまりにものんびりした吟行時間である。
さらに、たけしは『私達よりずつと遅れて到着した一行がありました。その人々は遅れ走せに暮れかかつた沼の畔りに佇んで句作に余念がありませんでした。』と記述している。
一行の到着が午後であったにもかかわらず、さらに遅れておそらく夕刻に到着した一行があったという。
武蔵野探勝を読むと、当時の吟行は、よく言えばおおらか、悪く言えばいい加減という印象を持つ。そもそも当時は公営、民営問わず貸出可能な集会場など存在していない。
句会場は、知り合いの家を借りるか、その場その場で料理屋や農家などと交渉して決めるしかない。したがって、きっちりした計画が立てられるはずもない。
また、どういう訳か、全員が揃わないうちにタクシーに乗ってどんどん出発してしまったりするケースも見受けられる。それでも最後にはだいたい全員が揃い、辻褄が合うところが面白い。
そういう現代とは異なる「おおらかさ」があったにせよ、夕刻の到着は遅すぎはしまいか。そしてこのさらに遅れて来た一行が誰だったのかが非常に気になるところである。
これらの答えは第82回の越央子が明かしてくれる。
三、第八十二回「さみだるゝ沼」
大橋越央子は記す。
『沼べりの蘆の中に一軒の小料理屋がある。図らずも思ひは五年前に遡る。昭和七年の秋十月、第三回の武蔵野探勝で立待月を見る会がこの手賀沼で催されたことがあつた。』
ここでようやく第三回の武蔵野探勝会が立待月を見る会だったことが判明する。つまりあえて遅いスタートにしたのである。ちなみに『五年前』は『七年前』の、『昭和七年』は『昭和五年』の誤りである。
『当時探勝会は此頃と違つて必ず第一日曜日といふ訳ではなく、その日もウヰークデーに催されたので、勤めの身の僕等は、午後四時の過ぐるを待つて風生、京童、奈王、夏山等の諸君と上野駅に駆け付けたこと、そして夕方暮れかかつた手賀沼の畔へ辿りつき、辛うじて立待月の出に間に合つたこと』
この記述により遅れた一行が富安風生、山本京童、片岡奈王、松藤夏山、そして越央子の五人であったことや遅れた理由が判明する。
第3回武蔵野探勝が行われた10月8日は、水曜日であった。
記録者の越央子も風生、京童、夏山も逓信省の官僚である。奈王も逓信省かは確認できていないが、官僚仲間である。
『今は故人となつた夏山京童の両君が健在で(略)今更の如く思ひ出の種は尽きない。』
2度の手賀沼吟行の間には7年の歳月が流れており、武蔵野探勝の開始から終結までの参加者の変遷についてもいずれは調べたい。
四、天神坂のこと
『汽車は今濠雨の中を、日暮里駅を出て我孫子に向かつて走つてゐる。(略)昭和十二年六月六日朝のことである。(略)我孫子駅で下車する頃に雨は大体止んだ。道の両側の家には何れも廂に菖蒲を葺いてある。この町では年中行事は凡て一月遅れにやる習慣だといふことである。家並を出はずれた頃から、雨は又夕立気味に沛然として降つて来た。濡れ鼠になつてやつと目的の家ー谷口別邸ーの門をくぐる。この家は我孫子町の一部で天神山といふ。手賀沼をめぐる低い丘陵の一角にある。元軍令部長海軍大将谷口尚真氏の別荘で 以前には柳宗悦氏が前後八年の間、又田中耕太郎氏が三年ばかり、読書に籠つて居られたといふ由緒のあるものである。(略)座敷に掲げぐる額に「三樹荘」と題してある。筆者帰一斎とは嘉納治五郎氏の雅号であるといふ。三樹荘の名は蓋し庭前に鬱然と茂る見事な三株の古木の椎に由来するものと思はれる。』
これは越央子の『さみだるる沼』の書き出しである。
この谷口別邸の所在地は、現在の我孫子市緑一丁目にあり、虚子一行が濡れ鼠になって歩いたことを考え合せれば、やはり別邸にはまっすぐに向かったことだろう。
我孫子駅南口に下車し、駅前通りをまっすぐに進んで国道356号線に出て左折。我孫子緑郵便局の先の交差点を渡り、ひかり幼稚園を目指す。幼稚園の右わきの道を行けば谷口別邸の所在地にでる。
今は、個人の所有であり、庭も非公開となっている。
『昼餉を済ますと、折から小降りになつたを幸ひに、皆別荘を立ち出でて崖の細道を下りて沼畔に出る。』
この『細道』が我孫子に住んだ幾多の文人が愛した「天神坂」である。
僅かの長さではあるが、この樹間の坂道は当時の面影を今でも残している。そして、この坂を降り立った先が第3回「手賀沼」の句会場となった「あびこ園」のあった地であり、手賀沼の畔は目の前である。近年の整備により手賀沼公園内に生涯学習センターも完成した。また、天神坂を降り立ってすぐに左へ進めば、虚子とも交友のあった杉村楚人冠の句碑や志賀直哉邸跡に行き当たる。まさに天神坂は我孫子のもっとも我孫子らしい坂道と言えよう。
下総日常探勝12
9月23日は、「風の道」創刊38周年年次大会が渋谷区で開催されました。
渋谷は、駅を降りるたびに歩行ルートが異なるという不思議な街ですので、とりあえずヒカリエと渋谷警察を見つけ一安心。
大会では、大高霧海主宰のお元気な姿に一安心。久しぶりに会う方のお元気な姿に喜ぶという年次大会ならではのスタートとなりました
ごくわずかの人に採っていただいた、この日の私の3句。
がらぽんの玉みな外れ鰯雲
コスモスと遊ばぬ風のなかりけり
くずし字をひとつ覚えて秋燈
下総日常探勝11
9月21日、千葉県俳句作家協会の秋季吟行会が流山市で開催されました。
県下の俳人74人が集い、懇親の輪を広げることが出来ました。
多大なるご協力をいただいた流山俳句協会の皆様、流山市ボランティアガイドの皆様、そして運営に携わって下さった作家協会の皆様に心から感謝いたします。本当に有難うございました。
私は、ほとんど会場内にいましたので、思うような吟行はできませんでしたが、ともかくも無事に終えてほっとしています。
武蔵野探勝38「小合溜」
1,はじめに
虚子一行は、38回目の武蔵野探勝として、昭和8年9月3日に金町を訪れている。
その記録は、「小合溜」と題して、本田あふひが残している。
『九月三日、残暑の烈しい日であつた。午前九時四十五分上野を発車したが、幹事の蚊杖さんが見えないのでどうしたことかと思つた。金町に下車して、幹事は見えないが今日の先導役である菖蒲園さんが一行中にあつたのでそろそろと目的地へ向ふことになつた。』
菖蒲園とは、為成善太郎の俳号である。京成本線「千住大橋駅」から徒歩5分ほどの旧日光道(千住河原町22付近)に「やっちゃ場の地」という石碑が建てられている。ここにあった市場で大喜という青物問屋を営んでいたのが菖蒲園である。
「やつちや場の主となりて昼寝かな」という句を残している。
『横町からえらい勢いで一台の自動車が現れた。見ると蚊杖さんが乗つてゐる。九時四十五分発の時間を五十分と通知された為に、御当人の蚊杖さんはじめ乗り遅れた仲間があつたので、自動車を雇うて汽車のあとを飛ばして来られたのだとのことであつた。早速其自動車を借用して足弱組が、今日の会場である小合溜へ向かつた。』
2、句会場について
あふひは記す。『二つの大きな沼があつて、其間を桜並木の堤が通つてゐる。其堤の下の一軒の百姓家が今日の会場である。門の入口に納屋があつて其中に鉄砲風呂が据ゑつけてあるのがよく見える。』『床の間には刀掛に刀がかけてある。黒光りに輝いてゐる仏壇もある。土間も広々とある。
土間涼し梁にかけたる藁筵 水竹居
下駄箱や胡瓜の籠や土間涼し 同』
この記述は、当然のことながら水元公園ができる前の風景である。
まず二つの沼が、小合溜の内溜と外溜であることは間違いない。そして、その間の堤は現在でも桜並木となっている。
記述から、香取神社側の現在の東水元二丁目38か40に句会場となった百姓家があったはずである。
該当する家は4軒ほどあるので、聞いて回ると「門があったのならMさんだろう」とのこと。ただ、その東水元の該当の番地は、現在有料老人ホーム建設中でありMさんのお話は伺えなかった。
『例に依つて落ち着いたら直ぐお弁当にして仕舞ひましようと先生はいはれた。時計を見たら十一時であつた。この沼には鯰釣り、鮒釣りなどがあちこちと沢山跔んでゐる。そして直径四五尺位の大きな蓮の葉に一面にトゲが出てゐるのが沢山に浮いてゐる。それが鬼蓮であつた。』
NPO法人水元ネイチャープロジェクトの「創立20周年記念誌 ~水元の自然を次世代に~」に、大滝末男氏による昭和33年の調査の図がある。それを見ると、鬼蓮は香取神社を背にした右手、現在の水元大橋の外側の小合溜南側に広く点在している。
百姓家を出て、東の小合溜へ向かえば鬼蓮を見ることになるので、この点からもやはり句会場はM宅だろうと思われる。
3、鬼蓮の後は
『だんだん雨雲が湧き立つて
夕立風桜落葉のしきりなる 京童
遥かに見えてゐた舟もいつの間にか一舟もゐなくなつてゐた。(略)皆はほとりにあつた一軒の茶店にかけ込んだ。』
「全住宅精密図帳 葛飾区版1963」には、現在の水元公園の「お食事処 涼亭」の場所に、大沼さんという一軒家があることが表示されている。
これも聞いて回ると涼亭(りょうてい)の場所で、大沼家が食事を出すお店を開いていたことがわかり、そこが雨宿りの茶屋に間違いなさそうである。
『すぐ雨は晴れて、茶店を出て土手を歩くと又じりじりと暑くなつた。
茶屋の婆外に出て見る夕立晴 虚子
百姓家に戻つて選句にとりかかつた。』と、あふひは記録を結んでいる。