武蔵野探勝を歩く1「欅並木」

1、虚子たちはどのように来たのか

虚子の記録は町を描写している。
『大國魂神社の前に、府中の町と直角をなしてをる馬場があって、其馬場の両側に、今は保護天然物になつてをる沢山の欅並木がある。五六町の間も続いてをつて頗る見事なものである。』
ここでいう「馬場」とは何か。一応、現在の馬場大門けやき並木の通りと解釈する。
さて、虚子一行はどうやって府中に来たであろうか。
府中本町駅も府中駅もすでに開業していた。特に京王線は昭和3年には新宿から北八王子まで開業していた。しかし、おそらく虚子たちは乗合自動車できたものと思われる。
それは次の二つの記述である。
『欅並木の馬場は中央線の国分寺駅からこの府中町に往復する乗合自動車が通る路になつている』
『初め街道から反れて少し這入つたところには人家が並んでをる。氷屋とか理髪店とかいふものに交つて警察署もある、やつちやばもある。(略)しばらく行くと、人家がもうなくなつて欅並木の左右は大方畑になつてゐる。丁度電車の踏切がある、その踏切を越えたあたりから物静かになつて心が落ち着いて来る。』との2つの記述である。
二つ目の記述の『初め』は、最初に街道のどこか地点からどこかの道に入ったことを示している。
氷屋は鎌内燃料氷店と思われ、現在の宮西町2丁目4-3アイスバーグビル。理髪店は無くなってしまったが同町2丁目にあった榎本理髪と思われる。すると虚子の入った道は旧甲州街道と思われる。
また「やっちゃば」が、現在の多摩信用金庫府中支店の場所にあった青果市場だとすると、「踏切」は現在の府中駅のガードということになるので、府中駅から歩いたとするとこのような記述にはなり得ない。旧甲州街道を自動車できたと考えるのが自然である。

2、参加者

虚子の記録による俳句から、風生、杣男、野菊、たけし、立子、まさを、水竹居、秋櫻子、蚊杖、あふひ、椎花、京童、夏山、吉人、越央子、花蓑、夢香、友次郎、霞人、煤六、雨意、すすむの23人と安養寺の文堂住職、そして籐椅子会の調査によって榎本野影住職、その弟さんの榎本武次郎氏の26人まで確認できる。

3、籐椅子会の調査とその後

籐椅子会の記録によれば、府中の福井草一氏が、たまたま西蔵院(是政3丁目)を訪ねた折、本堂左にあった展示ケースのなかに武蔵野探勝の句会での短冊があることを発見したという。
大変感激し、福田氏は後に、この時の虚子の句「秋風や欅のかげに五六人」の句碑を、大変なご苦労の末に立てた。この句碑は、かつて青果市場があった宮西町1丁目5-1付近の欅の下に立っている。
また、当時の句会に参加した煤六こと上林白草居の句碑が安養寺に立っている。煤六と文堂氏の間にも何かつながりがあったのかも知れない。
さて、私も非常に気になっていた句会短冊を拝見するために西蔵院を訪ねた。ところが、本堂脇にあるはずの展示ケースが見当たらない。
今では何処へしまい込んだか分からないとのことであった。武蔵野探勝の吟行から93年、籐椅子会の吟行からでさえ39年たっているのでは当事者・関係者はほとんどお亡くなりになっている。やむを得ないことと思う。
私は「もし見つかったらご連絡を」とお願いして辞すしかなかった。

武蔵野探勝を歩く0

1、虚子が武蔵野探勝を始めた理由と吟行地の選定

武蔵野探勝を始めるにあたり、虚子は第一回「欅並木」の中で、こう語っている。
『京洛の景色のみあこがれて、東京近傍にも亦た関東特有の風景があることを忘れたやうなものがあることは慨はしいことである。先づ第一番に閑却してならぬものは武蔵野である。』そして、武蔵野特有の景色は『京洛近傍の天地には見ることの出来ない趣である。』とした。
そこで『吟行会を催して、其等武蔵野の俤を尋(ママ)ね、句を徴し、文を綴つて見ようと思ひ立つた。さうして、先づ一番に「欅の並木」を題材にしようと思ひ立つた。』
これが武蔵野探勝を始めた理由であり、その第一回目を欅並木が有名な府中の大國魂神社にした理由である。

2、参加者

ホトトギスの主要メンバーの一人である安田蚊杖が幹事役となり、坊城家出身の本田あふひが世話役という形で、百回の吟行が行われたが、ホトトギスとは無関係の人もいたことが確認されている。
たとえば、第一回「欅並木」では、披講場所となった叡光山安養寺の住職。この方は文堂という俳人なので、ホトトギス関係者であることが想像される。むしろ、この方がいたからこそ虚子は府中を吟行地にしたのかも知れない。
また、「武蔵野探勝」を丹念に調査し、吟行会を行っていた「籐椅子会」(野村久雄会長)によれば、西蔵院の榎本野影住職とその弟、榎本武次郎氏も参加されたという。この二人は安養寺住職から吟行会開催を教えてもらった句友だと思われる。
このような事情から、それぞれの吟行会の参加者を確定するのは残念ながら困難である。

3、武蔵野探勝調査の再スタート

すでに、本ホームページ「武蔵野探勝を歩く」には、6回「寒鮒釣のゐる風景」、12回「古利根」、16回「浦安」、32回「六郷堤」、56回「近藤邸雛祭」、64回「全生病院」、68回「明ぼの楼」、78回「曽我の里」、79回「越ケ谷の梅見」、100回「鶴ヶ岡八幡宮」の9編を書いたが、いよいよ8月14日をもって残る91回の再調査をする。
そして、極力、虚子たちが吟行を行った同じ月、同じ場所に私も立ち、ホームページを更新していきたい。
その記念すべき第一回は、もちろん府中の欅並木としたい。

※写真は蚊杖とあふひの短冊。「前の人を追ひ越しもせず初詣」「初冬の中禅寺湖を来て見たり」

下総日常探勝8

俳句仲間の唐鎌良枝さんから御著書「悲しき飲んだくれ」をいただきました。
シベリア抑留者であるお父様を見つめなおした、非常に中身の濃い御本でした。
私もかつてシベリア抑留者の方々や北朝鮮の日本人妻救済活動を続けていらっしゃる方々からお話を伺ったり、交流させて頂いたりしましたので、あらためて心の奥底にずしりと来る御本でした。
読み進めていくうちに、今では頭の片隅に追いやられていた若き日のどうしようもなくやるせない感情が湧き上がってきました。
貴重な御本を賜り、本当に有難うございました。

下総日常探勝7

「沖」顧問の杉本光祥さんから俳人協会自註現代俳句シリーズ『杉本光祥集』をご恵送いただきました。
杉本さんは登山家でもあり、私も杉本さんの山の俳句を楽しみにしている一人です。
感銘した御句に付箋を入れていくと、瞬く間に付箋だらけになってしまいました。
松の木になりきつている油蟬
そそり立つ峰に雲湧く岩桔梗
焦点のピシッとあった極小世界から雄大な山岳美まで。思わず魅せられてしまいます。

武蔵野探勝を歩く12「古利根」

 一、春日部と俳句
 虚子一行は、昭和6年7月19日第12回武蔵野探勝会「古利根」(佐藤漾人記)で埼玉県春日部市を訪れている。昭和初期の粕壁(当時は粕壁と表記)は俳句が盛んであった。
 旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)に関する資料をみると、当時の職員室には投句箱が置いてあり、作句しない者は職員会議にも出られない雰囲気であったという。
 粕壁中学の教員であった菊地烏江、小島十牛、飯塚雨村、石井白村らが句作の中心だった。石井白村は万葉集の英訳で名を馳せ、後に青山学院大学で教鞭をとるようになる。
 そうした熱気のこもる昭和4年に加藤健雄(楸邨)が同中学に赴任してくるのである。楸邨が同僚たちの感化を受け俳句の道に入るのはもはや時間の問題であった。昭和6年には俳句を始めたとされている。
 さて、虚子たち一行が春日部を訪れたのも昭和6年である。楸邨がこの吟行に参加していたのかと言えば、武蔵野探勝は、むしろ虚子が参加者を制限しており、俳句を始めたばかりの者が参加する余地はなかったと思われる。
 一方、当時の春日部での俳句界の雄は、何と言っても水原秋桜子である。
 今でも春日部駅近くの粕壁2-5-1に当時「粕壁医院」と称していた「安孫子医院」があり、秋桜子は月に二回診察をするためにここに通ってきていた。
 秋桜子来院の日は、「水原先生来院」の看板が掲げられ、粕壁の俳人たちのみならず浦和の長谷川かな女など数多くの俳人が集まってきていたという。そうした中の一人に楸邨がいたのである。

 二、「古利根」佐藤漾人記について
 漾人はこう記す。
 『行先が秋桜子さんの案内で、同君が常々我々に推賞して止まない古利根といふ』
 『先生は駅から直ぐ自動車で、御婦人連と一緒に、今日の休み場の新川に向はれた。他の多くの連中は秋桜子さんの「町の裏を直ぐ古利根が流れてゐる、いゝ景色ですよ」との言葉に惹かれ、皆秋桜子さんの後についてぞろぞろと町に這入つた。』
 虚子やご婦人たちが自動車で向かった句会場は、庄内古川を渡る新川橋の袂にある新川屋である。十年ほど前までは、息子さんが鰻屋「新川亭」として営業していたが、現在は残念ながら営業していない。
 一方の徒歩組の秋桜子たちはどういうルートをたどったのであろうか。
 『私達の通つたのは町の裏町らしかった。燕が巣かけてゐる豆腐屋があつたり、煙管を売る低い店(略)軒先に小さい絵馬をかけてある荒物屋などもあつた。(略)私達が町裏から直ぐこの古利根の上に横はつて居る新川橋を渡る時(略)次の川下のかす賀橋まで下つた時分』
 ここで漾人の書く『町裏から直ぐ』の『新川橋』という橋はない。これは句会場である新川橋からの勘違いで、実際は新町橋だと思われる。そうだとすると、新町橋を渡るためには、春日部駅から句会場とは反対方向の左へ進み、現在の主要地方道さいたま・春日部線に出る必要がある。
 駅から左に向かい、さいたま・春日部線へ出る角に煙草屋があるが、昭和40年代の住宅地図では山崎酒店となっているので、漾人の記録にある煙管屋ではないかもしれない。
 さいたま・春日部線に入ってすぐ左手に豆腐屋(中屋豆腐店)がある。荒物屋は先の煙草屋の斜向かいにあるが、これも当時は鍛冶屋だったそうで該当しない。
 町の人に聞くと田村金物店だろうという。しかし、田村金物店は位置的には本来見える場所にはなく、もし見えたとすると当時はほとんど家がなかったのであろう。
 実は、春日部駅を左手に進み、このさいたま・春日部線へ入る少し手前を右に曲がれば秋桜子が通ってきていた「安孫子医院」がある。その道を通らずに、わざわざ遠回りの街道を選んだ真の理由は分からないが、実際に歩いてみると、街道のほうは古い土蔵あり、時代がかった店や板塀ありで、米麦などの集散地であった粕壁の姿を色濃く残していることが分かる。秋桜子はそうした粕壁の顔を見せたかったのであろう。
 さて、秋桜子一行は新町橋を向こう岸に渡ってから川下へ歩いている。
 『私達は四方の景色に見とれながら堤の上の草径を三々伍々川下に下つて行った。』
 『五六丁下つてかす賀橋を過ぎ、又五六丁にして八幡橋があつた。私達はその橋の近くにある八幡宮の森に入つて憩ひ休んだ。』
 かす賀橋は現在の春日橋である。秋桜子たちは二つ目の八幡橋でこちら岸へ渡りなおして八幡神社で休んだ。おそらく7月の吟行であるから暑さに木陰を求めたのであろう。
 『境内には春日部松樹里と刻んだ碑が建つてゐた。』この碑は今でもある。
 『やがて頼んで置いた三台の自動車が来たので、私達はそれに分乗して、あの大凧揚の行事で名高い宝珠花に通ずる街道を十分ばかり走つて新川に来た。』
 句会場までの距離からいって、さすがに徒歩組も八幡神社からは車での移動となる。
 漾人の記述について正確を期せば、新川橋へ向かう道(現在の県道321号線)は、国の無形文化財である大凧まつりの宝珠花への道ではない。それはもう一本北側を走る県道320号線である。
 いずれにせよ秋桜子が安孫子医院にて診察をしていなければこの吟行は成立しなかった。そして、虚子が訪れた同じ年に楸邨が俳句に目覚めるなど、俳人たちが春日部の町に交差した不思議を今さらながら感じるのである。

「武蔵野探勝」との出合ひ

武蔵野探勝を歩く100「鶴ケ岡八幡宮初詣」

『第百回目の探勝会』

武蔵野探勝は、足かけ10年にわたり原則として毎月第一日曜日に行われてきた。その第100回目、すなわち一番最後の昭和14年1月の第一日曜日が1日、元日であった。
昭和18年2月15日発行『武蔵野探勝』甲鳥書林版も、昭和44年11月20日発行有峰新社版も、『鶴ヶ岡八幡宮初詣』という表題で、昭和14年1月1日の開催とされている。しかし、実際に吟行が行われたのは、実は1月8日のことであった。
この点について、高濱虚子はこう記している。
『武蔵野探勝は丁度今回で百回に達するので、それを記念する為め粗餐でも差上げたいと思つたところであるから両方を合併して催したいものという考へがあつたのであつたが、元旦はそれを合併して催すほど多人数を入れる場所で空いてゐるのが鎌倉には無かつたので、止むを得ず第二日曜の八日に延期して、海浜院で催すことになつた。』
このときの句会場になった海浜院は、現在の由比ガ浜4丁目6ー1に所在していたホテルであるが、残念ながら現存していない。この武蔵野探勝から7年後の昭和21年1月に米兵の火の不始末により焼失してしまった。
武蔵野探勝が行われた昭和14年当時は、鎌倉海浜ホテルとして営業していたが、虚子は『海浜院』と記載している。これは、同ホテルの前身が明治20年に海水浴を取り入れたサナトリウム「保養所海浜院」だったことによる。虚子の吟行当時は、木造二階建て、室数54の海岸を見下ろす堂々たるホテルであった。
虚子は記す。
『一番に草庵に訪れたのは高野素十君で吹雪の新潟から出て来て、(略)つづいて見えたのが和歌山の松岡春泥、芙蓉の夫妻、大阪の大橋桜坡子君であつた。其うちに真下夫妻、たけし、夢香、今井夫妻、友次郎夫妻等がだんだん集つて来て前々日より来て居た年尾』
『昼食が済んだ時分にその霰も小止みになつたので、折節玄関に来た莉花女、沼蘋女、らく女さん等も一緒になつて一同で先づ鶴ヶ岡八幡宮に初詣した』
昭和3年当時の海浜ホテルにあった電車時刻表によると、10時に東京を発つと新橋10時5分、横浜10時37分、鎌倉11時11分となっている。女性陣三人はこの電車で来たのかもしれない。ちなみに、現在のダイヤでは東京発10時1分発で鎌倉着は11時1分であり、わずか10分の違いでしかない。現代の我々は、昭和初期の鉄道を決して侮れない。
虚子は記す。
『太鼓橋のほとりで先づ奈王君に出くはした。それから舞殿のほとりに行くと多くの人々が手帳に句を書留めてゐるのに出逢つた。(略)石段を登つて社殿の前に立つと、そこにも手帳に句を認めてゐる沢山の人が居た。』
この探勝会では55人もの参加者が確認できている。なお、故山本柊花同人会長のお父上である山本薊花(けいか)氏も参加しており、「松古りて鎌倉山の寒鴉」「沖つ波荒れ冬空は低く垂れ」という句が虚子に採られている。この二句は、句集「続 白珠」に収められている。
さて、海浜ホテルの情景はどのようなものであったろうか。
虚子は記す。
『海浜院にはクリスマスツリーもしてあれば餅花もしてあつた。(略)ホールには西洋人の団体も居り普通の客も居るのであつて、其等が入交じつて休憩しているのはどことなく春めいた感じであつた。
馬車駆りてホテルの句会と鳥総松 日ねもす
スチーム温くしコリント遊び子等はする 湘海
暖炉の火ほのぼのと靴に絨毯に   清三郎
餅花は静かラヂオは絶間なく   たけし』
 湘海の句に出てくる『コリント遊び』とは、スマートボールの原型とも言うべきもので、パチンコ台を横に寝かせた形をしている。
『食堂の用意が出来たといふ知らせがあつたので今度は食堂に変つてをるさきの披講の場所に入つてテーブルに著いた。それから私は「御機嫌よう」と言つて盃を挙げたら、水竹居氏は「万歳」と言つて盃を挙げた。一同はそれに和した。御馳走は洵に粗末なものであつたけれど、これで武蔵野探勝の百回を記念し祝福したことになり、私は満足を覚えたのであつた。』
どのような食事だったのかについて、虚子が全く触れていないのは少し残念である。
 それはさておき、第一回の昭和5年8月27日、府中の大国魂神社裏の安養寺で始まった武蔵野探勝が百回を数え、海浜ホテルの食堂にて幕を閉じた。その後のことについて、虚子はこう書いている。
『「日本探勝」と名を改め、二月から出来る限り地方の俳句会とも連絡を取り、広く日本の探勝に乗り出すことにしようと思ふ。(略)そこで其第一回に当たる二月の探勝会は尾張、三河地方の俳人諸君と共に二月十一日(紀元節)十二日(日曜)蒲郡で催して見ようかと考へて居り、目下交渉中である』
一つの偉大なる吟行会の終わりは、すなわち次の吟行会のスタートでもあった。虚子の俳句探勝はまだまだ続くのである。

下総日常探勝6

宮田正宏さんの奥様から「まつど文学散歩 第7集」を賜りました。
本当に残念なことに、宮田正宏さんは4月9日にご逝去されてしまいましたので、この「第7集」が遺作となってしまいました。
第6集までの「まつど文学散歩 総集編」は、非常に貴重な著書で、「2011.3.3」の日付で、サインをしていただいたことを昨日のことように覚えています。
このほど賜りました「第7集」には、私が情報提供させていただいた「武蔵野探勝」についての記述もあり、もっともっと宮田さんとお話がしたかったと悔やまれてなりません。
「まつど文学散歩」は松戸市の宝です。松戸市にとって、これほどの大きな貢献は宮田さん以外にはできなかったことは言うまでもありません。
本当に残念でなりません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

武蔵野探勝を歩く78「曽我の里」

一、「曽我の里」 三宅清三郎記

 昭和十二年二月七日、虚子一行は第七八回目の武蔵野探勝として曽我の梅林を訪れた。
 この日、虚子が詠んだ『曽我神社曽我村役場梅の中』の句碑が曽我兄弟の菩提寺である城前寺本堂裏手にある。
 一行は、東京駅を発って国府津に着き、車で曽我梅林へ向った。
『今日の肝煎役であるべき楠窓氏は突如ふたたびの海上勤務被命で遠く南洋航路の洋上にあり、令弟大和田抱甕子氏が楠窓氏に代って何くれとなく一行の世話をせられて(略)』
楠窓は、日本郵船の機関長であったため急きょ洋上勤務となった。そこで弟の大和田抱甕子の出番となったが、実は、もう一人の接待役がいたことが分かっている。それは、当日の句会場の主・加来氏の長女都である。
清三郎の記録には都について何も触れられていないがこういう記述がある。
『梅の花炭火おこりて茶の烟 虚子
(略)蘭花の湯、大粒の金平糖、木瓜酒といふ風変りのおもてなし、ことに金平糖は虚子先生も大変お喜びになった様子だった。
 なつかしの金平糖や梅の宿 水竹居』
こうした接待をしたのが都であった。なおこの中に出て来る木瓜酒とは、加来家で造った草木瓜(シドミ)の果実酒のことである。
さて、この二月七日はもう一つの意味を持った日でもあった。
清三郎は記す。
『外はひしひしと寒い様子に尻込みして、ふたたび出てゆく者は少なかった。(略)碧梧桐初七日をすませて来られた黒の紋付の虚子先生は廻り縁の畳廊下に端座せられて、荘の大玻璃戸越しに早春の寒雨にけぶる梅花村をじっと眺めてうごかれなかった。
梅林の中の庵に我在りと 虚子』
二月一日、腸チフスを患った碧梧桐は敗血症を併発し帰らぬ人となった。虚子は「俳句の五十年」の中の「晩年の碧梧桐」でこう述べている。
『碧梧桐と私は不幸にして違った俳句の道を歩んだともいへますが、一方からいへばそれが俳句界をして華やかならしめた原因であるともいへるのでありまして、又私の生涯におきましても碧梧桐あるが為に、又碧梧桐は私があるが為に、お互ひに華やかな道を歩んで来たともいへるのであります』
ライバルであり親友といううらやましいほどの関係であったことがよく理解できる。

二、太宰治との不思議な縁

平成二一年一二月二六日早朝、一軒の古い空き家が焼失した。小田原市曽我谷津の雄山荘である。この雄山荘ほど数奇な運命を見守ってきた建物はないかも知れない。
この建物が有名になったのは、太宰治の小説「斜陽」の舞台だったからである。
「斜陽」には、『あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく(略)、十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの附いた来客用の洋間が一間』という描写がなされている。
今では「斜陽」には太田静子という原作者がおり、彼女の雄山荘に関わる日記が小説の主要なモチーフだったことが知られている。
静子は太宰の子を産み、太宰は別の愛人と命を断つ。そして、その太宰が生まれた明治四二年から丁度百年目に雄山荘は焼失した。十年近く空き家であり、電気も通っていなかった雄山荘の出火原因は現在もなお不明とされている。
雄山荘は、朝日印刷所創業者の加来金升(かくきんしょう)が、病気療養中の母親のために昭和五年春に建てた。ところが建築中に母親が亡くなってしまったので、友人たちに別荘として貸し出すこととし、「大雄山荘」と名付けた。
太田静子が移り住んだのは昭和一八年一一月のことで、逓信省次官や日本曹達社長を歴任した大和田悌二の斡旋だと言われている。大和田は、「斜陽」の中では「大」の字を取った「和田の叔父さま」のモデルとされている。
実は、大和田は養子先の姓を名乗っているが旧姓は上ノ畑であり、彼の兄は虚子門下の上ノ畑楠窓なのである。静子は、母親の弟にあたる楠窓(純一)たちを「上ノ畑の叔父様」、「大和田の叔父様」と呼んでいた。
さらに、太田静子が葉山に転居した後の昭和三八年秋からは、ホトトギス同人の林周平が雄山荘最後の住人となる。周平は朝鮮鉄道の京城駅助役時代に虚子に師事している。「大雄山荘」の「大」の字を取って「雄山荘」と改名したのも周平である。
虚子が、武蔵野探勝第七八回「曽我の里」で、「大雄山荘」を訪れたのは昭和一二年二月七日のことである。
その句会場が、後に「斜陽の家」として有名になることはもとより、その後も虚子と深い関わりのある人たちが雄山荘に住むことになるなど知る由もなかった。そんな複雑な人間模様と男女の愛憎を見続けてきた雄山荘も今は現存していない。
私(藤井稜雨)が雄山荘を訪ねたのは、梅雨の晴れ間のいささか暑い一日だった。
雄山荘の跡地には雑草が生い茂り、草の中から小振りの石灯籠が無惨に傾いていた。林周平が玄関わきに建てたという虚子直筆の句碑『今の世の曽我村は唯梅白し』は見当たらない。
城前寺の方に伺うと「火災のあと整地をしたのでその際撤去したのでは」と言う。
城前寺の本堂裏の句碑を拝見させていただき、私は下曽我を後にした。

※雄山荘の映像は「小田原デジタルアーカイブ」にある。
※『斜陽』の家 雄山荘物語(東京新聞出版局)林和代著を参考にした。

「武蔵野探勝」との出合ひ

下総日常探勝5

 【西行 鼓ケ滝を聴いて】

二人の男の眼下に大河があった。大河に衣川が流れ込んでいた。
 「曾路、金鶏山が見えるな。あの山だけが往時のままじゃ。あの山だけがこの地の栄枯盛衰を見守ってきたのじゃ。」
 「はい。」曾路はつぶやくように応じた。
「一句なった。」
男は矢立を取り出すと、曾路が見守る中でさらさらと文字を書き始めた。
そこには、「いにしへの栄枯盛衰夏野哉」と書かれていた。
曾路は、目を見張ってため息をついた。
「いい句ですね。」
日が暮れかかっていた。今宵の宿は決まっていない。曾路は眼下を指さした。
「宗匠、あちらに薄煙が見えまする。今宵はあちらに泊めていただきましょう。」
二人は小高い丘を下り始めた。
やがて、薄煙の家が見え始めた。家というより小屋に近い粗末なものであった。
近づくと童の甲高い楽しそうな声が聞こえた。
「もうし。」
曾路が声をかけると、戸の隙間から老爺が顔を出した。
「わしらは旅の者じゃ。すまぬが、今宵一晩泊めてはくれぬか。」
「こんな杣屋でよろしければどうぞ。ただ、食べるものとて何もありませんぬが」
やがて、暗がりに囲炉裏の炎がゆらゆらと影を遊ばせるなかで、男たちは粥を啜った。
「ところで旅の御方。わしらはこんな草深い地で、毎日同じような日を送り、里の話に飢えておりますじゃ。なにか面白い話をしてもらえませぬか」
「そうでありましたか。それほど面白い話ではないが」と曾路が応じた。
「私たちは旅をしながら俳諧に暮らしています。」
老爺が尋ねた。「ほう。このような草深い地でどのような俳諧をなさるかの」
「さよう。宗匠、先ほどの発句をご披露下され。」
宗匠と呼ばれた男が、先ほどの紙を取り出す。
流麗な筆遣いで認められた『いにしへの栄枯盛衰夏野哉』という文字が見えた。
「なるほど、これが俳諧ですか。いにしへの栄枯盛衰、なるほど。これはずしりと来るお言葉。なるほどなるほど。」老爺は感銘を受けた熱い目で発句を眺めた。
「ただ、こう言っては何ですが、『夏野』が気になりますな。」
隣に座っていた宗匠と呼ばれた男の体がぐっと強張った。
「いやいや、ほんの年寄りのたわごとで。ただ、この草深さは夏野よりも『夏の草』の方がしっくりくると勝手に思っただけで。年寄りのたわごと。お気になさらないでください。」
すると囲炉裏の反対側に坐っていた老婆が急に口を出した。
「わしも思ったのじゃが、『いにしへの』がどうも気になるのじゃ。遠い過去のことじゃろ。夢の果て、とか夢の跡とか夢と読んだ方が、往時の人たちの思いが伝わるような気がしますじゃ。」
そこへ孫娘が甲高い声で言った。
「おじちゃん、おじちゃん。この字は何て読むの。」
曾路が答える。「『えいこせいすい』と読むのじゃ。」
「どういう意味。」
「むかし栄えていた人が、今は滅んでしまった、という意味じゃ」
「ふうん。昔強かった人が弱くなっちゃたの」
「まあ、そんなところじゃ。」
「ふうん。むかしの強者(つわもの)ね。そういうふうにいってくれないとあたいには分からない」
曾路は、ぽんと手を打つと矢立を取り出して何やら書き始めた。
『つはものどもが夢の跡夏の草』
老婆が畳みかけるように言い放った。
「ダメじゃダメじゃ。そんな俳諧では誰も分からん。上と下をひっくり返すのじゃ。」
老婆は曾良から矢立をひったくり、さらさらと書き始めた。
『夏の草つはものどもが夢の跡』
宗匠と呼ばれた男は目の前に繰り広げられた顛末に気が遠くなるように感じた。
「わしの言葉は『夏』しか残っとらん」と心の中で叫んだ。
額にはみっしりと汗が光っていた。

翌朝、男たちは杣屋を後にした。男たちの前に夏草が茂っていた。
宗匠と呼ばれた男は夏草を憎々しい目で見た。
やがて二人は歩き始めた。宗匠と呼ばれた男は、どこまでも夏草が続いている道がつくづく嫌になった。
「夏草はいやじゃ」と宗匠はつぶやいた。
矢立を取り出してさらさらと書き始めた。
『夏草いや兵どもが夢の跡』

武蔵野探勝を歩く64「全生病院」

 一、はじめに

 虚子とその一門は、昭和五年八月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和十四年まで続けられ、その回数はちょうど百を数えた。
 武蔵野探勝第六十四回は、昭和十年十一月三日にハンセン病療養所である全生病院で行なわれている。
当時、療養所には「ホトトギス」投句者を中心とした入所者による俳句愛好会『芽生会』が活動しており、俳誌『芽生』八十四号(昭和十年十二月一日発行)は武蔵野探勝会歓迎号とされている。この俳誌の存在によって、探勝会参加者全員を特定することができる。
また、現在は『国立療養所多磨全生園』となった当地には国立ハンセン病資料館が併設されており、その図書室には『芽生』以外にも『山桜』『愛生』『楓』など虚子に関係する貴重な俳誌も保管されている。

 二、第六十四回『全生病院』中村汀女、高木晴子、星野立子記

 この回は、女流三人による会話形式の記録となっている。            
『―新宿から村山までのドライブは素的でしたね。(略)
―病院の芝生はきれいでしたね。松があって。
―赤松でしたね。』
このような会話で話は進んでいく。現在の全生園も正門から療養所入り口付近には立派な赤松がある。
『―先づ軍隊式の大きな炊事場が目に残りましたね。井戸端に二人の患者さんが菜っ葉を洗ってゐましたっけ。』
 炊事場、井戸端は現在の給食棟、洗濯場の付近にあった。『―菊を作ってゐる籬に沿うて左に折れて行くと、ミシンをかけたりしてゐた一軒が目につきましたがそれは百合舎といふ名の女の人ばかりの住んでゐる家でした。(略)
―少年寮の人達は、大変大さわぎして遊んでゐたのに、私達が通る時、バタンと戸を閉めてしまひました。』
園内には当然子どもたちもいた。彼ら彼女らは十五歳になるまで少年寮、少女寮に住むことになっていた。少年寮は「若竹舎」「桐舎」、少女寮は「百合舎」「椿舎」と言う名称だった。
『―広場もあって、そこの傍に全生富士といふお山がありました。』
これは大正十四、五年の敷地拡張時に入所者の希望により入所者たちの手で造った築山で、現在は「望郷の丘」と呼ばれている。
『―広場から正面に講堂が見えてゐましたね。杖をたよりに二三人歩いてゐた人がその講堂に上ってゆくのに気がついてふと中を見ると、演壇に立って話しをしてゐる父が見えました。』(略)
『―先生のお話、遅れて行ったので半分きりきけませんでした。
 ―山本暁雨さんの答辞に胸がいっぱいになりました。「刻々に蝕まれゆくばかりの・・・」と声もしっかりと立ちつづけて話される姿に泣かされました。』
 ここでいう講堂は、「礼拝堂」であり、現在の厚生会館付近にあったと思われる。
 この時の虚子の五分ほどの挨拶は前出の『芽生』に筆記録が残っている。
残念ながら暁雨の答辞は残されていないが、『芽生』には答辞内容が推察できる文章が掲載されている。

三、虚子と暁雨の挨拶(抜粋)

虚子
『此の四季の現象を最もよく受け入れて楽しみ且つ詠ずるのは、俳句を作る人の特権であります。俳句を作られる方は、実に此の天が与へてくれた幸福を受け入れる権利を所有し行使する方であると思ふ。今を時めく人でも四季自然の移り変りに全く無関心で此の天与の幸福を享受し得ないのに比して、あなた方が、それに深い関心を持ち俳句を詠ぜられると云ふことは大へんな幸福であると私は思ひます。
「ホトトギス」にも皆さんの投句が多くあります。それを見てゐるといつでも私は考へます。(略)成績の如何を問はずして、只四季の移り変りを純粋に楽しむこと、そのことが非常に幸福であります。成績に囚はれ成績を気にすることは、折角の幸福を不幸にして了ひます。そうしたことを問題にせず、皆さんは唯純粋に、俳句に遊ぶといふ考へさへあれば、非常な幸福であると考へます。』

 『栄えの日に逢ひて』山本暁雨

『月々ホトトギスに投句する事を許されて、一般作者と何等分け隔てなく、懇切叮嚀なる御指導を給はってをる事だけでも、私共にとって過分の事と、芸術の有難さを痛感しをる次第である。
凡そホトトギスの流れを汲む句会は、全国津々浦々到る所に散在し、まだ見ぬ虚子先生を慕ひ憧れてゐる多くの作者のことを思ふ。然れども健康と自由に恵まれてゐる其人々は、仮令何なる僻地に住むと雖も、何時かは先生の臨まるる句会に或は講演会に逢ひ得らるる可能性があるのである、が併し私共の如き隔離療養を受けてゐる者に至っては、レコードに依るか或は又マイクを通して先生の御声を拝聴する外道はないのである。況して先生の臨まるる句会など出る、といふやうな事は夢以外には許されぬ儚い望みであった。然るに何たる幸福ぞ、突如として、虚子先生を中心とせらるる、武蔵野探勝会の御一行がわが村を訪れらるる、の吉報が齎らされたのである。(略)
虚子先生が私共に給はった御言葉こそ、斯道修行の標識灯となり、芽生俳壇の行く手は光り輝き大いなる希望に満たされたのである。(略)』

四、おわりに

 現在、全生園のような国立ハンセン病療養所は全国に十五ほどある。
 平成三年十一月三日に紫綬褒章を受章された俳人・村越化石(濱)は草津町の栗生楽泉園に入所されていた。
家族からも一般社会からも完全に隔離された入所者たちは何を思っただろうか。
「誰からも必要とされていない」という絶望の中から、それでも彼らは創作という一つの道を見出し、閉ざされた一角の中で懸命に生きてきた。国立ハンセン病資料館にはそうした入所者たちの声がぎっしりと詰まっていた。
人々からとうに忘れられた武蔵野の雑木林の一角にある療養所を虚子が訪ねていたことに心から敬意を表したい。 そして、中学・高校時代にすぐ隣の小平市に住んでいながら、その存在をまったく知らなかった私は、このたび多磨全生園に訪問できたことを心から喜んでいる。