2025年10月 旧朝倉家住宅

2025年10月19日(日)、「旧朝倉家住宅 秋の句会」が開催されました。
朝倉邸は、東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任された朝倉虎治郎氏の建てた住宅です。現在は国に譲渡され国有財産となっています。
秋時雨の落ち着いた雰囲気の中、お庭やお屋敷内を拝見させていただき、13時から句会。
ハチコウ大学の方もご参加くださり、秀句の揃う句会となりました。また、「風の道」からは、美奈子さん、みちゑさん、俊雄さん、勝代さんにも参加していただきました。
紅葉が遅れているのは残念でしたが、係の人の親切な対応で楽しいひと時となりました。
お足元の悪いなかご参加された皆様、運営を担当された皆様に心から感謝いたします。
階に己れの軋み秋深し
密議めく屋敷の会話秋灯

2025年10月「風の道」千葉句会


2025年10月18日(土)は、「風の道」千葉支部例会の日でした。本日の兼題は「椿の実」「体育の日」です。
「体育の日」はいつの間にか無くなってしまい、「スポーツの日」に変わってしまいました。「椿の実」は、ひとみさんが持ってきて下さいました。
千葉支部例会の会場は京葉線の稲毛海岸駅にあります。この街の海辺には海浜公園があり、休日はなかなかの賑わいです。
ちなみに、来年3月の千葉県俳句作家協会の吟行会は、この「稲毛海浜公園」で開催されます。
私の小学3年生のときの遠足は稲毛海岸での潮干狩りでした。その時の海岸線は現在の国道14号(357号)だったのですから、まさに今は昔です。

おくのほそ道(壬生へ)

炎暑の夏が過ぎ、ようやく歩ける季節になってきたので、「奥の細道」徒歩の旅を再開した。
2025年10月17日7時47分、小山駅を出発。真っすぐ壬生へ向かうのではなく、芭蕉が奥のほそ道で尋ねた初めての歌枕「室の八島」を訪ねる。
また、せっかくなので「しもつけ風土記の丘」にも寄り道する。
喜沢に男体山の石柱がたっている。ここで日光街道と別れを告げる。
小山カントリークラブに挟まれた道は途端に自然が濃くなる。何とイノシシが・・・奥多摩で出会って以来。
左手に思川の土手を見ながら、琵琶塚古墳の方へ左に入って行く。そのまま「しもつけ風土記の丘」へ。ただ、看板は「天平の丘公園」との表示ばかり。
これを抜けて、下野国分寺跡を抜けて、再び壬生通りに戻る。
花見ヶ岡の交差点から思川を渡り、「室の八島」(大神神社)へ近道をゆくが、幹線道路を外れると直ぐに道に迷う。
途中で、散歩中の男性に道を尋ねながら道標を頼りに「室の八島」へ。
ここから今井の交差点の先までは歩道もない。12時7分に壬生駅着。ほぼ想定通り。
ここまで来ると、コンビニも少なく、飲料は自販機に頼るしかない。食堂、喫茶店の類はないものと思わねばならない。
さて、壬生からはどうなるのか。きっちり調べたわけではないが、まず楡木あたり。次に、文挾を経て今市。これで経路があっているのかどうか?
ただ、今市までたどり着ければ、その次には裏見の滝に行けるのではないか。
少しゴールが見えて来た感じがした晩秋の一日だった。

「風の道」創刊40周年大会開催

2025年9月27日(土)、東京都渋谷区内にて『「風の道」創刊40周年記念大会』が開催されました。
ご参加の皆様、遠方からお越しの皆様に心から感謝申し上げます。
また、本大会開催へ向けて様々なご尽力を頂いた実行委員の皆様、運営に当たって下さった皆様、本当に有難うございました。
大会は、故大高霧海主宰のご夫人、敏子様のご挨拶でスタート。続いて兼題「霧」「月」での記念句会が行われました。
午後の部では、松浦靖子同人会長の退任挨拶、羽鳥つねを新同人会長挨拶、そして世田谷支部の鈴木勝代さんの同人推挙が行われ、その後に大高霧海主宰を偲ぶ会となりました。
最後に、藤井稜雨新主宰から「継続は力なり」との挨拶、そして45周年へ向けて新たな思いで出発する旨の決意表明がありました。
大きなイベントを無事故で終えることが出来、皆様のご協力に感謝、感謝です。
10月の各句会に、また元気に集い合いたいと思います。

2025年9月「風の道」世田谷句会

9月14日、世田谷句会が開かれました。
句会の兼題は、「水澄む」「衣被」です。
私の句「カロッタのごとく味噌のせ衣被」はどなたも採らず・・・残念でした。

実は、この日の午前中に、編集長の美奈子さんとともに、同人会長の靖子さんのお自宅にお邪魔して、いろいろな思い出話を伺いました。
特に、長野県御代田支部の発足当時の話は初めてのお話ばかりで、非常に参考になりました。
大変にありがとうございました。

2025年9月「風の道」銀座句会

2025年9月13日、恒例の銀座句会が行われました。
中央区の京橋区民館は、40年前の「風の道」発足当時から句会を行ってきた会場。
本日の句会の兼題は「夜長」「蕎麦の花」です。
最高得点は、「病む母に夜長の一燈ともしおく」日出代さん。何と次席も「忘れたきことは忘れず夜の長し」日出代さんでした。
私の選んだ句は「飛行機の乗換北の夜の長し」ひとみさん、「介護誌に黄泉の母ゐる夜長かな」邦子さんでした。
次回、10月11日の兼題は「新」の読み込みです。会員以外の人も大歓迎です。奮ってご参加ください。

2025年9月「風の道」同人句会

2025年9月6日(土)、渋谷区「リフレッシュ氷川」において、同人句会を開催。
8月は炎暑のため首都圏の句会を休会としましたので、久々の顔合わせとなりました。

9月27日には、「風の道」40周年記念大会が予定されています。
この句会終了後は、引き続き大会準備委員会となります。
同人の皆様には大変お世話になります。よろしくお願い致します(稜雨)

武蔵野探勝を歩く11「砂川村」

1、 はじめに
6月の「武蔵野探勝を歩く」は、立川市の「砂川村」を選んだ。
実は、武蔵野探勝100回の中で、調査が進まない吟行地が二つあり、それが第11回「砂川村」と第86回「柏山荘」なのである。柏はわが家から近いので何度も歩いたが、砂川の調査はしていなかった。ただ、私は中学・高校の4年間を国分寺市の五日市街道沿いのアパートに一人で暮らしていたので土地鑑はあった。
 また、6月の武蔵野探勝は、「砂川村」以外に第23回「三宝寺池」、第35回「牛久沼」、第47回「武蔵国分寺」、第59回「軍艦諷詠の記」(横須賀市)、第71回「豊島園」、第82回「さみだるる沼」(手賀沼)第94回「鵜の森」(千葉市)と7回行われており、砂川村以外は場所の特定が容易な所ばかりである。そこで、今回は「砂川村」を訪れることにした。

2、 本田あふひの記録から
 虚子一行は昭和6年6月17日に「砂川村」で吟行を行った。このときの記録者は本田あふひだが、場所の特定ができそうな記述がほとんどない。
『六月十七日、午前十一時に立川駅に集合することになつた。例に依り蚊杖さんの斡旋で、この日は砂川村の養蚕の模様を見るのが目的であつた。駅から乗合自動車一台を借切り、約二十分ばかりで、桜並木が道端に沢山突立つて居る、玉川上水の支流がその並木の下を流れて居る、如何にも武蔵野の町らしい一つの町に着いた。』
『丁度その自動車が止つた所は、殊に欅の大樹で取り囲まれて居る、門を這入ると広い広い庭のある、大きな藁葺家根の、一つの古い家の前であつた。』
『蚊杖さんは(略)その家の前を通り抜けて、これも大百姓と思はれる一つの家の前に立つた。』
『何処か休憩する場所を定めねばならぬと云ふので蚊杖さんと私とが三四軒交渉して、半町ばかり行つた処の一軒の茶店を借りることにした。』
といったような具合で、手掛かりらしいものがない。
 まず、立川駅から砂川村へ向かうとなれば、普通は芋窪街道を北上して五日市街道へ出る。砂川村は西側なので、五日市街道を西へ向かえば、天王橋で玉川上水と交差することになる。
天王橋の手前に残堀川が流れており、この周辺のことを『支流がその並木の下を流れて居る』と表現したのかも知れない。あるいは昭和初期には小さな水路が走っていたのであろうか。

3、 籐椅子会の調査から
 野村久雄会長のもと「籐椅子会」の三角優子氏が、昭和59年9月30日に調査を行っている。この調査によると、①『自動車が止つた処』は旧名主の砂川氏邸(砂川町3丁目10)である②虚子たちが養蚕の作業風景を見たのは堺邸(上砂町4丁目21)である③句会場の茶店は滝島屋(現在は竜泉寺駐車場)だとされている。
 そこで、私もまず砂川さんをお訪ねした。奥様は虚子のことや吟行のことは全くご存じなかったが、まさに隣家が滝嶋さんであることを教えて下さった。
 そこで早速訪ねて、滝嶋さんの御主人に話を伺うと、「滝島屋」は自分のところではなく、分家の滝嶋が飲食店を営業していた。ずいぶん前に店を閉めてしまい、現在は竜泉寺の駐車場になってしまっているが、ちょうど梅田酒店の手前にあったのだという。
 砂川邸から滝島屋までの距離は100メートルほどなので『半町ばかり行つた処』ともほぼ矛盾しない。
 砂川邸は現在でも堂々とした門があり、本田あふひの記述そのままのたたずまいである。そして、隣家が滝嶋本家であれば、分家の茶店「滝島屋」を紹介してもらい、交渉によって句会場を確保したことも自然な流れである。
 また、滝嶋さんのご主人には、堺さんについても砂川医院の手前に住んでいらっしゃることを教えていただいた。そこで堺さんを訪ねて確認したが、こちらも奥さんには全く分からないとのことであった。
 堺さんのお宅は、砂川邸からは若干離れているが、交渉役の安田蚊杖や本田あふひ以外の一行が五日市街道沿いを養蚕農家を見学しながら吟行していたことを考えれば、むしろやや離れた場所にあることの方が吟行として自然である。
 昭和6年当時の砂川村の街道筋には、おそらく欅大樹が豊富にあり、玉川上水の支流がこの近傍をかなり走っていたことは想像に難くない。いまでも街道のあちらこちらに欅などの大樹が散見されるのである。

武蔵野探勝を歩く70「閑庭惜春」

1、武蔵野探勝と世田谷

 武蔵野探勝と称した吟行会は、世田谷で4回行われている。
最初は、昭和7年2月7日の『砧村』。多摩川畔紅葉ヶ丘の岩崎男爵邸、有名な静嘉堂文庫である。残念ながら、同文庫は現在、丸の内に移転してしまった。
 令和6年2月に、「風の道」吟行会が世田谷区の有形文化財である旧小坂邸で行われた際、国分寺崖線の庭を下りて、道の向こう側の静嘉堂文庫跡地を訪ねてみた。果たして門は閉ざされており、記念に写真を1枚だけ撮らせていただいた。ただ、虚子が訪ねた同じ2月に世田谷での吟行に参加できたことが嬉しかった。
 武蔵野探勝の2回目は、昭和8年8月6日の『玉川村上野毛』である。豪農の田中恭次宅が句会場となったが、ここは現在の上野毛2丁目14-25にある男子跣足カルメル修道会カトリック上野毛協会のはす向かいにあったとされる。(籐椅子会調査による)
 第3回目は、昭和11年2月2日の『別墅早春』。句会場の田男爵邸は、現在の五島美術館である。最初の岩崎邸が三菱、こちらは東急。
 この第3回目の武蔵野探勝では、ちょっとした出来事があった。記録者の大橋越央氏はこう書いている。
『披講半ばにして別荘の番人が来て、虚子先生に東京朝日新聞の記者が御面会です、といって名刺を取り次いだ。先生は黙々として立つて行かれた。(略)暫くして素十君と上ノ畑楠窓君が呼び出されて部屋を去つた。(略)披講の終る頃、何気なき面持で虚子先生と素十楠窓の二君が帰つて来られた。(略)このさり気ないやうな一出来事こそ、昭和の俳壇否日本の俳壇に未曽有の事件を決定したのであつた。』
 実は、この日、虚子外遊の志ありと聞き込んで朝日の記者が句会場まで取材に来たのであった。
 虚子は、昭和11年2月16日に日本郵船箱根丸で横浜を出港し、フランス、ベルギー、ドイツ、オランダ、イギリスを回る4か月の旅に出ることになる。当時、パリに留学中であった次男の池内友次郎を訪ねるのが目的の一つだった。
 句会で、素十、楠窓が呼ばれたのは、当時、虚子に熱心に渡欧を勧めていたのが素十だったこと、楠窓こと上ノ畑純一は、虚子が渡航する箱根丸の当時の機関長だったことによる。
 
2、逢丘のこと

 武蔵野探勝第37回『玉川村上野毛』の吟行会に、はじめて逢丘の名がみえる。先に述べた通りこの句会場は田中邸という豪農の家で行われた。通常の場合、同地に御子孫が住んでいないと一般人の家を特定するのは困難である。ましてやこの周辺には田中姓が多い。
 この田中邸を特定したのは、故野村久雄氏が主宰する『籐椅子会』である。実は、武蔵野探勝に参加していた逢丘氏の地主が田中恭次氏(恭二という表記もある)で、逢丘のお嬢さん(大塚芳恵氏)が『籐椅子会』の会員だったのである。こうした巡り会わせがなければ特定できなかった可能性が高い。

3、閑庭惜春について

 第4回目の武蔵野探勝『閑庭惜春』は、昭和11年5月3日の吟行会であり、先の理由により、虚子は参加していない。
 記録の上林白草居は記す。『深沢の水竹居邸における筍の会は、今ではもう我等仲間に著名な年中行事の一つとなつて居る。処が私はいつも折悪しく未だ一度も参会の栄に浴したことがない。今年は其筍の会が武蔵野探勝会を兼ねて催されたので欣然として推参することにした。』
 句会が行われた赤星水竹居邸は、現在の駒沢5丁目16番地9号にあった。駒沢公園ヒルズというロの字型のマンションや電気店や焼肉店など4つの店舗になっている。
 今回の白草居の記録は、虚子選がなかったこともあり、参加者互選の点数がそのまま記載されており、参加者の特定に非常に役立つ。ただ、高得点者ならともかく二点の方まで名前が残るというのもなかなか辛いものがある。そして、その二点は、会場提供者の赤星水竹居だった。
 この日の高得点句は、『裏木戸の開いてゐるなり花苺 宇津木未曾二』九点だった。
 なお、水竹居の句についてこんな記載がある。
『葉桜のかげに筆塚の土饅頭があった。真紅なつつじの供華に香煙がただようて居る。稍後方に侍づく如く自然石の句碑が建つて居た。
 着ぶくれて老師まぶかに頭巾かな 水竹居
と碑面の文字が読まれた。老師の写生であらうが、また庵主の自画像のやうにも思はれて微笑まれる。』
 この句碑は明大前駅にほど近い築地本願寺和田堀廟所にある赤星家の墓所に建てられている。

武蔵野探勝を歩く9「一園に了る」

 第9回武蔵野探勝「一園を了る」は、昭和6年4月29日、下高井戸の吉田園という料理屋において吟行が行われた記録である。吉田園は現存しておらず、その場所は現在、宗教法人の教団本部となっている。
 記録者の中村草田男は記す。『京王電車の下高井戸駅に下りた。後から遅れて来る人の便宜の為に、方向を書きしるした小紙片を、駅員室の玻璃窓の枠へ挿してをくと、一同はつれてすぐに踏切を右へ渡つた。そこに公設市場のやうなものがある。(略)甲州街道へ出た。ここいらは僕の住居から、さして遠くないので、よくひとりで徘徊した熟路である。』
 昭和6年当時の草田男は、東京帝国大学の学生であり、独文科から国文科へ転じたころである。一体どこに住んでいたのであろうか。
 この年の冬、草田男は20年ぶりに母校の南青小学校を訪れたときに、あの有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり」を詠んでいる。したがって、このとき草田男は港区に住んでいたのではないか。
 仮に、小学校近くに住んでいたとすれば直線距離で5キロほど。「さして遠くない」という表現もギリギリ許されるかと言う感じである。
 ちなみに、その後の草田男は世田谷区北沢に新居を構え、さらに今回の吟行地である下高井戸に住むことになる。職場が吉祥寺の成蹊学園だということを考えれば、いずれも交通至便の地である。
草田男は記す。『もう一つ角を曲がる。すぐに行手にに、一面の緑が見える。そして白い小さな橋の正面が見える。玉川上水である。橋のむかふ側は土塀のやうな堤に行当りになつて居た。(略)「おい、どうだい、洒落た名前ぢやないか、小菊橋だとよ」と風生さんが洋杖で橋柱を叩いて居る。』
現在の玉川上水は、ほとんど暗渠になっている。この周辺はその玉川上水跡の窪地が玉川上水第三公園となっており、窪地を跨ぐ橋として小菊橋が残っている。
『見ると、少し上手の緑の下から、水の面は走り下りて来て、橋の下へ走り込んでいゐる。
 上水の早き流や若葉かげ 虚子
 新樹かげ雨の輪迅き流かな 杣男
 上水へ垂れ下りたる新樹かな 青邨
 多摩川の上水走る若葉かな 京童 』
 草田男の記録からさらに吟行の様子を見てみよう。
『橋を渡って、土塀に沿ひながら堤を少し下る。(略)土塀が途切れた所に吉田園とあつて、門がある。田舎料理と書いた一枚板の看板が吊り下げてある。
「頭から田舎料理とだけ書いたのは洒落てゐる」風生さんが、又大変よろこんでゐる』
『入口に鏡張りの衝立があるのと、中央左手よりに五月人形の赤い飾段があるばかり、ずらりと一面の畳で、さながら道場である。
赤星さんは、なにしろ若い時には尿に血が混るほど撃剣三昧だつた人である、「ここへ這入つただけで興奮しやしませんか」等とたけしさんが揶揄してゐる。』
『食事にかかつた。僕は(略)あふひさんつる女さんのオスソワケに与る。青邨さんが(略)お国の名菓豆銀糖とかを持参してゐて、同じく盛岡に居たことのある水竹居さんがそれを先生に紹介して居る』
『青邨さん、素十さんと一緒に谷の方へ下る。横木を踏み砕いて誰かが滑つた跡があつた。下り着きに、簷をいただいた小さな祠があつて、水竹居さん、たけしさん其他が窮屈に寄集つて居る』
『「気をつけないと、其道は滑るよ」と背後から京童さんが注意してくれる。見ると洋袴一面に赤土で汚れて居る。「滑つたのは貴君だつたのですか」と思はず二三人と共に笑ふ。』
『此庭園には不思議なほど、いろんな物が発見せられる。
黒もじの花ほろほろと雨の中 あふひ
ぜんまいの芽のほぐれたるさみしさよ 夢香
蕗の花高く真白く春は行く 青邨
小さなる実を結びをり庭の梅 花蓑』
『披講後、尚まだ時間が豊富に余つて居るので、発行所を拝借してもう一句会催さうと、あふひさんが発議して勧誘に努めてゐる。(略)新宿から他の十二三人と共に発行所行の自動車に乗る。』