一、はじめに
虚子とその一門は、昭和五年八月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和十四年まで続けられ、その回数はちょうど百を数えた。
「風の道」七月号(第二四一号)「武蔵野探勝と世田谷」の中で、高野素十と日本郵船機関長であった上ノ畑楠窓の意見を聞き、虚子が洋行を決断したことはすでに触れた。
虚子はこの洋行により、武蔵野探勝会第六十八回「明ぼの楼」から七十一回「豊島園」までの四回は欠席となる。今回は最初の欠席吟行会「明ぼの楼」について書いてみたい。
二、「二・二六事件」と武蔵野探勝
楠目橙黄子は記す。
『武蔵野探勝会が回を重ねること六十八回にして二つの変動に遭遇した。その一つは虚子先生洋行御不在といふこと、その二は東京に於ける二・二六事変勃発の為め、定例第一日曜日に開催出来なかつたといふこと。』
二・二六事件と言えば、今日の私たちにとって歴史的大事件である。それが橙黄子によれば、事件そのものよりも『(武蔵野探勝が)定例第一日曜日に開催出来なかつた』ことが重大視されているのが非常に興味深い。
たとえ歴史的大事件であれ、同時代のその時その瞬間に生活している者にとっては、身近な物事の方が案外大事なのかもしれない。
『幸にして時日の方は、未だ戒厳令下にありといへども事変鎮静に帰したので、第二日曜の三月八日に改めて探勝会を開催することになつた』
武蔵野探勝会開催日は「二・二六事件」の実に十日後である。しかも師である虚子が不在であるにもかかわらず、なぜそこまで開催にこだわるかといえば橙黄子はこう記す。
『併し先生御出発に当り、俳句界の行事一切従来通りとの仰付けだつたので、我々忠実なる俳諧の輩は之を遵奉することにした』。
『俳句界』という言葉の表現や、虚子を取り巻く当時の心意気が伝わってくるようである。
三、「明ぼの楼」楠目橙黄子記
『雪催ひの空を仰ぎながら目蒲池上線の電車から下りて、大森駅通ひのバスに乗り浄国橋停留所といふところで車を捨てる。(略)老爺に訊ねると、「オヤさつきも明ぼの楼をきかれたよ、その橋を渡つてすぐ左の横路をお這りなさい」と教へて呉れた。』
池上本門寺の南を流れる呑川に、現在でも浄国橋がかかっている。橙黄子が道を教わった老爺は左の路地に入れと言っているので、橙黄子は橋を渡って、そのまま百メートルほど進んだ左の路地に入ったと思われる。その路地を二百メートルも進めばやがて二又が現れ、左手の坂道を登っていく。この道は本門寺につながっているのだが、その坂の中腹にある「大森めぐみ教会」「めぐみ幼稚園」が「明ぼの楼」の跡地である。
坂道の傍らには、かつて「明ぼの楼」があったことから、この坂を「あけぼの坂」と呼ぶという区教育委員会の杭が立っている。
橙黄子は記す。
『小さな階段を上がると二間つづき部屋があつて、其処に風生氏を中心とした五六人が寒さうに打ちかたまつて火鉢を抱き外套を着たまゝ話をしてゐる。その話はたけし氏の病状を案じる話なので、空気陰鬱、いつもの武蔵野探勝会の如き景気がない。』
虚子が不在で、たけしが病気、しかも日本を揺るがす大事件の勃発では踏んだりけったりであろう。なお、虚子は第七十二回「暖依村荘」から、たけしは七十六回「善福寺池」から復帰し、さらに言えばパリ留学から帰国する作曲家の池内友次郎は七十四回「野路の秋」から探勝会に復帰することになる。
さて、「明ぼの楼」(池上1ー19ー35)は、明治十九年に発見された鉱泉によって賑わった。当時は芝の紅葉館、鮫洲の川﨑屋と並んで有名であったという。
田山花袋の『東京近郊』では『丁度その台地の崖に凭ってつくられてあるような形になっていた。此処の梅も見事だ。門から爪先上りに登って行く感じも好ければ、長い高い階段を登って眺望のよい室に導かれて行く心持もわるくない。』と書かれている。
武蔵野探勝にもこういう発言が出てくる。
「此家が昔のまゝに在るなんて実に愉快だ。此処はねエ君、僕等が若い頃今の箱根とか熱海とかいふところのやうに、一泊に東京から遊びに来たものなんだよ。」これは、麻田椎花か赤星水竹居の発言であろう。東京(多分東京駅)から大田区へ一泊で遊びに行くという感覚も、すでに武蔵野探勝当時でさえ考えられなかったことと思われる。「明ぼの楼」がほどなく廃業となるのは、あまりにも近郊でありすぎたためだったのだろう。
最後に、この日の句について述べておかねばならない。次のような風生の句が物議をかもしたというのである。
梅寒しゝゝゝゝ群雀 風生
(うめさむしちょんちょんちょんちょんむれすずめ)
この句の梅は、花袋?が「見事だ」と書いた「明ぼの楼」の梅園のものだろう。
橙黄子は記す。
『作者曰く「此句はきつと先生には見出されるんだがねエ」と。すべての作品に対する問題の解決は先生の御帰朝を待つことにしよう。』