1,はじめに
虚子一行は、38回目の武蔵野探勝として、昭和8年9月3日に金町を訪れている。
その記録は、「小合溜」と題して、本田あふひが残している。
『九月三日、残暑の烈しい日であつた。午前九時四十五分上野を発車したが、幹事の蚊杖さんが見えないのでどうしたことかと思つた。金町に下車して、幹事は見えないが今日の先導役である菖蒲園さんが一行中にあつたのでそろそろと目的地へ向ふことになつた。』
菖蒲園とは、為成善太郎の俳号である。京成本線「千住大橋駅」から徒歩5分ほどの旧日光道(千住河原町22付近)に「やっちゃ場の地」という石碑が建てられている。ここにあった市場で大喜という青物問屋を営んでいたのが菖蒲園である。
「やつちや場の主となりて昼寝かな」という句を残している。
『横町からえらい勢いで一台の自動車が現れた。見ると蚊杖さんが乗つてゐる。九時四十五分発の時間を五十分と通知された為に、御当人の蚊杖さんはじめ乗り遅れた仲間があつたので、自動車を雇うて汽車のあとを飛ばして来られたのだとのことであつた。早速其自動車を借用して足弱組が、今日の会場である小合溜へ向かつた。』
2、句会場について
あふひは記す。『二つの大きな沼があつて、其間を桜並木の堤が通つてゐる。其堤の下の一軒の百姓家が今日の会場である。門の入口に納屋があつて其中に鉄砲風呂が据ゑつけてあるのがよく見える。』『床の間には刀掛に刀がかけてある。黒光りに輝いてゐる仏壇もある。土間も広々とある。
土間涼し梁にかけたる藁筵 水竹居
下駄箱や胡瓜の籠や土間涼し 同』
この記述は、当然のことながら水元公園ができる前の風景である。
まず二つの沼が、小合溜の内溜と外溜であることは間違いない。そして、その間の堤は現在でも桜並木となっている。
記述から、香取神社側の現在の東水元二丁目38か40に句会場となった百姓家があったはずである。
該当する家は4軒ほどあるので、聞いて回ると「門があったのならMさんだろう」とのこと。ただ、その東水元の該当の番地は、現在有料老人ホーム建設中でありMさんのお話は伺えなかった。
『例に依つて落ち着いたら直ぐお弁当にして仕舞ひましようと先生はいはれた。時計を見たら十一時であつた。この沼には鯰釣り、鮒釣りなどがあちこちと沢山跔んでゐる。そして直径四五尺位の大きな蓮の葉に一面にトゲが出てゐるのが沢山に浮いてゐる。それが鬼蓮であつた。』
NPO法人水元ネイチャープロジェクトの「創立20周年記念誌 ~水元の自然を次世代に~」に、大滝末男氏による昭和33年の調査の図がある。それを見ると、鬼蓮は香取神社を背にした右手、現在の水元大橋の外側の小合溜南側に広く点在している。
百姓家を出て、東の小合溜へ向かえば鬼蓮を見ることになるので、この点からもやはり句会場はM宅だろうと思われる。
3、鬼蓮の後は
『だんだん雨雲が湧き立つて
夕立風桜落葉のしきりなる 京童
遥かに見えてゐた舟もいつの間にか一舟もゐなくなつてゐた。(略)皆はほとりにあつた一軒の茶店にかけ込んだ。』
「全住宅精密図帳 葛飾区版1963」には、現在の水元公園の「お食事処 涼亭」の場所に、大沼さんという一軒家があることが表示されている。
これも聞いて回ると涼亭(りょうてい)の場所で、大沼家が食事を出すお店を開いていたことがわかり、そこが雨宿りの茶屋に間違いなさそうである。
『すぐ雨は晴れて、茶店を出て土手を歩くと又じりじりと暑くなつた。
茶屋の婆外に出て見る夕立晴 虚子
百姓家に戻つて選句にとりかかつた。』と、あふひは記録を結んでいる。