武蔵野探勝を歩く24「竜淵寺」

1、参加者のこと

昭和7年7月3日、虚子一行は熊谷を訪れた。
星野立子は、こう記している。『上野を九時五十分発の小山行の汽車は、そんなに混んでゐなかつた。汽関車の次の箱にみんなゆつくりと腰かけることが出来た。大阪から、先月の末頃に上京された青木稲女さんが加はり、かならず顔の見える風生さんが御病気で欠席。熊谷に着くと、丁度来熊中の耿陽さんをはじめ、一宿、秀峰、露文、啓翠、一路、鴨石の熊谷の方々が出迎ひに来てゐられた。』
また、末尾のところでは『この日は凡て熊谷の凌霄花発行所の世話で、特別誂の名産五家宝のお土産を銘々がかかへて、汽車に乗り込んだのは五時二十分頃であつた。』としている。
まず、岡田耿陽の『丁度来熊中』の理由は、生業の生糸の買い付けでしばしば熊谷を訪れていたからである。そして、その際定宿としていた田島屋(現在の八木橋百貨店の近くに所在)の主が田島一郎、すなわち一宿である。
熊谷俳句会のリーダー的存在である一宿や一路(柿原清二。農商務省退職後、絹物問屋「柿原商店」を継ぐ)は、昭和2年に「熊谷ホトトギス会」を結成、俳誌「コスモス」を発行していた。この「コスモス」誌が、昭和6年には「凌霄花」誌となっていたため、立子は『凌霄花発行所の世話で』と述べているのである。ちなみに「凌霄花」の雑詠の選にあたっていたのは耿陽である。
昭和2年に、すでに熊谷ホトトギス会を結成していたことからもわかるように、虚子たちはこの時初めて熊谷に来たという訳ではない。
大正13年10月には、たけし、一水、夏山、青邨らが茸狩りをし、一宿、一路らとともに福田鉱泉に行き、その後星渓園で句会を開いている。また、大正15年2月には虚子を迎えて星渓園で記念句会を盛大に催した記録が残っている。
さらに言えば、熊谷の隣の行田には川島奇北がおり、一宿らは奇北の指導も受けていた。
こうした関係性の深さがあればこそ、『特別誂の名産五家宝のお土産を銘々がかかへて』が腑に落ちるのである。

2、吟行地「星渓園」

立子は記す。『二台のバスは熊谷の町を通り過ぎて、星渓園といふ庭園を見るために途中で止まつた。』
ここは、熊谷宿の本陣竹井家を継いだ竹井澹如(たんじょ)が造った回遊式の名園である。湧き出る水が玉のように美しいことから「玉の池」と呼ばれる泉がある。
『苔をふみ泉をめぐるわれ等かな 夢香
 はつきりと鯉の見えをる泉かな 露文
 白扇を使えばうつる泉かな たけし』と言った句が作られている。特に、山口青邨は星渓園が気に入り、その後も何度も訪れており、昭和25年11月の句会での『夕紅葉鯉は浮くまま人去りぬ』という句が句碑として立っている。

3、本来の吟行地「竜淵寺」

立子は記す。『再びバスに乗つて、細い田圃道をゴツトンゴツトンと又小十分程。やがて一むらの杉木立の中に藁葺の大寺が隠見して見える。其が今日の目的地である竜淵寺である。』
竜淵寺は行田の忍城主であった成田氏の菩提寺である。
『本堂の裏座敷で中食のおべん当を開いて、運ばれた鯉こくに満腹して、思ひ思ひに外に出た。』
『往きがけにも気はついてゐたのだが、一軒の百姓家では、老夫婦が麦を打つてゐるのがあつた。断つてみんなその庭に這入らせてもらふ。
麦打つや蝶々とべる花葵 虚子
子の頭そつてをりけり麦むしろ 拓水
麦うちの埃の中の花葵 あふひ
麦打の家もありけり農休み 啓翠』
さて、現在の竜渕寺(現在では「渕」と表示)を訪ねると、鐘楼の手前に虚子の句碑が立っている。
『裸子の頭そりをり水ほとり』という句碑である。
これは、先の小林拓水の句「子の頭そつてをりけり麦むしろ」と全く同じ景であり、虚子がこの百姓家の庭で作った句である。
非常に似た景であったために、虚子は拓水の句を取り、自分の句は取らなかったのであろう。
この百姓家は、竜渕寺の参道を出てまっすぐ進んだ川べりの左側、秋元家である。
私(稜雨)が最初に訪ねた時にも、この裸子であるHさんはお亡くなりになっていて、お話を伺うことが出来なかった。
ただ、ご住職からHさんが8歳の夏のことであり、ご本人はもちろん武蔵野探勝で自分のことが詠まれているなど知る由もなかった。
ましてや、回りまわって、昭和46年5月に立派な句碑として、ご自分の日常の姿が残されたことも知らなかった。
御存命であれば、是非ともご心情を伺いたかったと思うのである。