武蔵野探勝を歩く78「曽我の里」

一、「曽我の里」 三宅清三郎記

 昭和十二年二月七日、虚子一行は第七八回目の武蔵野探勝として曽我の梅林を訪れた。
 この日、虚子が詠んだ『曽我神社曽我村役場梅の中』の句碑が曽我兄弟の菩提寺である城前寺本堂裏手にある。
 一行は、東京駅を発って国府津に着き、車で曽我梅林へ向った。
『今日の肝煎役であるべき楠窓氏は突如ふたたびの海上勤務被命で遠く南洋航路の洋上にあり、令弟大和田抱甕子氏が楠窓氏に代って何くれとなく一行の世話をせられて(略)』
楠窓は、日本郵船の機関長であったため急きょ洋上勤務となった。そこで弟の大和田抱甕子の出番となったが、実は、もう一人の接待役がいたことが分かっている。それは、当日の句会場の主・加来氏の長女都である。
清三郎の記録には都について何も触れられていないがこういう記述がある。
『梅の花炭火おこりて茶の烟 虚子
(略)蘭花の湯、大粒の金平糖、木瓜酒といふ風変りのおもてなし、ことに金平糖は虚子先生も大変お喜びになった様子だった。
 なつかしの金平糖や梅の宿 水竹居』
こうした接待をしたのが都であった。なおこの中に出て来る木瓜酒とは、加来家で造った草木瓜(シドミ)の果実酒のことである。
さて、この二月七日はもう一つの意味を持った日でもあった。
清三郎は記す。
『外はひしひしと寒い様子に尻込みして、ふたたび出てゆく者は少なかった。(略)碧梧桐初七日をすませて来られた黒の紋付の虚子先生は廻り縁の畳廊下に端座せられて、荘の大玻璃戸越しに早春の寒雨にけぶる梅花村をじっと眺めてうごかれなかった。
梅林の中の庵に我在りと 虚子』
二月一日、腸チフスを患った碧梧桐は敗血症を併発し帰らぬ人となった。虚子は「俳句の五十年」の中の「晩年の碧梧桐」でこう述べている。
『碧梧桐と私は不幸にして違った俳句の道を歩んだともいへますが、一方からいへばそれが俳句界をして華やかならしめた原因であるともいへるのでありまして、又私の生涯におきましても碧梧桐あるが為に、又碧梧桐は私があるが為に、お互ひに華やかな道を歩んで来たともいへるのであります』
ライバルであり親友といううらやましいほどの関係であったことがよく理解できる。

二、太宰治との不思議な縁

平成二一年一二月二六日早朝、一軒の古い空き家が焼失した。小田原市曽我谷津の雄山荘である。この雄山荘ほど数奇な運命を見守ってきた建物はないかも知れない。
この建物が有名になったのは、太宰治の小説「斜陽」の舞台だったからである。
「斜陽」には、『あのあたりは梅の名所で、冬暖かく夏涼しく(略)、十畳間と六畳間と、それから支那式の応接間と、それからお玄関が三畳、お風呂場のところにも三畳がついていて、それから食堂とお勝手と、それからお二階に大きいベッドの附いた来客用の洋間が一間』という描写がなされている。
今では「斜陽」には太田静子という原作者がおり、彼女の雄山荘に関わる日記が小説の主要なモチーフだったことが知られている。
静子は太宰の子を産み、太宰は別の愛人と命を断つ。そして、その太宰が生まれた明治四二年から丁度百年目に雄山荘は焼失した。十年近く空き家であり、電気も通っていなかった雄山荘の出火原因は現在もなお不明とされている。
雄山荘は、朝日印刷所創業者の加来金升(かくきんしょう)が、病気療養中の母親のために昭和五年春に建てた。ところが建築中に母親が亡くなってしまったので、友人たちに別荘として貸し出すこととし、「大雄山荘」と名付けた。
太田静子が移り住んだのは昭和一八年一一月のことで、逓信省次官や日本曹達社長を歴任した大和田悌二の斡旋だと言われている。大和田は、「斜陽」の中では「大」の字を取った「和田の叔父さま」のモデルとされている。
実は、大和田は養子先の姓を名乗っているが旧姓は上ノ畑であり、彼の兄は虚子門下の上ノ畑楠窓なのである。静子は、母親の弟にあたる楠窓(純一)たちを「上ノ畑の叔父様」、「大和田の叔父様」と呼んでいた。
さらに、太田静子が葉山に転居した後の昭和三八年秋からは、ホトトギス同人の林周平が雄山荘最後の住人となる。周平は朝鮮鉄道の京城駅助役時代に虚子に師事している。「大雄山荘」の「大」の字を取って「雄山荘」と改名したのも周平である。
虚子が、武蔵野探勝第七八回「曽我の里」で、「大雄山荘」を訪れたのは昭和一二年二月七日のことである。
その句会場が、後に「斜陽の家」として有名になることはもとより、その後も虚子と深い関わりのある人たちが雄山荘に住むことになるなど知る由もなかった。そんな複雑な人間模様と男女の愛憎を見続けてきた雄山荘も今は現存していない。
私(藤井稜雨)が雄山荘を訪ねたのは、梅雨の晴れ間のいささか暑い一日だった。
雄山荘の跡地には雑草が生い茂り、草の中から小振りの石灯籠が無惨に傾いていた。林周平が玄関わきに建てたという虚子直筆の句碑『今の世の曽我村は唯梅白し』は見当たらない。
城前寺の方に伺うと「火災のあと整地をしたのでその際撤去したのでは」と言う。
城前寺の本堂裏の句碑を拝見させていただき、私は下曽我を後にした。

※雄山荘の映像は「小田原デジタルアーカイブ」にある。
※『斜陽』の家 雄山荘物語(東京新聞出版局)林和代著を参考にした。

「武蔵野探勝」との出合ひ