武蔵野探勝を歩く9「一園に了る」

 第9回武蔵野探勝「一園を了る」は、昭和6年4月29日、下高井戸の吉田園という料理屋において吟行が行われた記録である。吉田園は現存しておらず、その場所は現在、宗教法人の教団本部となっている。
 記録者の中村草田男は記す。『京王電車の下高井戸駅に下りた。後から遅れて来る人の便宜の為に、方向を書きしるした小紙片を、駅員室の玻璃窓の枠へ挿してをくと、一同はつれてすぐに踏切を右へ渡つた。そこに公設市場のやうなものがある。(略)甲州街道へ出た。ここいらは僕の住居から、さして遠くないので、よくひとりで徘徊した熟路である。』
 昭和6年当時の草田男は、東京帝国大学の学生であり、独文科から国文科へ転じたころである。一体どこに住んでいたのであろうか。
 この年の冬、草田男は20年ぶりに母校の南青小学校を訪れたときに、あの有名な「降る雪や明治は遠くなりにけり」を詠んでいる。したがって、このとき草田男は港区に住んでいたのではないか。
 仮に、小学校近くに住んでいたとすれば直線距離で5キロほど。「さして遠くない」という表現もギリギリ許されるかと言う感じである。
 ちなみに、その後の草田男は世田谷区北沢に新居を構え、さらに今回の吟行地である下高井戸に住むことになる。職場が吉祥寺の成蹊学園だということを考えれば、いずれも交通至便の地である。
草田男は記す。『もう一つ角を曲がる。すぐに行手にに、一面の緑が見える。そして白い小さな橋の正面が見える。玉川上水である。橋のむかふ側は土塀のやうな堤に行当りになつて居た。(略)「おい、どうだい、洒落た名前ぢやないか、小菊橋だとよ」と風生さんが洋杖で橋柱を叩いて居る。』
現在の玉川上水は、ほとんど暗渠になっている。この周辺はその玉川上水跡の窪地が玉川上水第三公園となっており、窪地を跨ぐ橋として小菊橋が残っている。
『見ると、少し上手の緑の下から、水の面は走り下りて来て、橋の下へ走り込んでいゐる。
 上水の早き流や若葉かげ 虚子
 新樹かげ雨の輪迅き流かな 杣男
 上水へ垂れ下りたる新樹かな 青邨
 多摩川の上水走る若葉かな 京童 』
 草田男の記録からさらに吟行の様子を見てみよう。
『橋を渡って、土塀に沿ひながら堤を少し下る。(略)土塀が途切れた所に吉田園とあつて、門がある。田舎料理と書いた一枚板の看板が吊り下げてある。
「頭から田舎料理とだけ書いたのは洒落てゐる」風生さんが、又大変よろこんでゐる』
『入口に鏡張りの衝立があるのと、中央左手よりに五月人形の赤い飾段があるばかり、ずらりと一面の畳で、さながら道場である。
赤星さんは、なにしろ若い時には尿に血が混るほど撃剣三昧だつた人である、「ここへ這入つただけで興奮しやしませんか」等とたけしさんが揶揄してゐる。』
『食事にかかつた。僕は(略)あふひさんつる女さんのオスソワケに与る。青邨さんが(略)お国の名菓豆銀糖とかを持参してゐて、同じく盛岡に居たことのある水竹居さんがそれを先生に紹介して居る』
『青邨さん、素十さんと一緒に谷の方へ下る。横木を踏み砕いて誰かが滑つた跡があつた。下り着きに、簷をいただいた小さな祠があつて、水竹居さん、たけしさん其他が窮屈に寄集つて居る』
『「気をつけないと、其道は滑るよ」と背後から京童さんが注意してくれる。見ると洋袴一面に赤土で汚れて居る。「滑つたのは貴君だつたのですか」と思はず二三人と共に笑ふ。』
『此庭園には不思議なほど、いろんな物が発見せられる。
黒もじの花ほろほろと雨の中 あふひ
ぜんまいの芽のほぐれたるさみしさよ 夢香
蕗の花高く真白く春は行く 青邨
小さなる実を結びをり庭の梅 花蓑』
『披講後、尚まだ時間が豊富に余つて居るので、発行所を拝借してもう一句会催さうと、あふひさんが発議して勧誘に努めてゐる。(略)新宿から他の十二三人と共に発行所行の自動車に乗る。』