高濱虚子は、昭和13年3月6日、第91回武蔵野探勝において、明治大学和田校舎周辺を吟行している。
その記録は「西郊春色」と題して、富安風生が残している。今回は、この記録について紹介する。
武蔵野探勝会は、誰でも彼でも参加できるというものとはなっていない。参加者には案内を送るという形をとっている。
今回の明大周辺の吟行案内は次のようなものであった。
「渋谷ヨリ帝都電鉄、新宿ヨリ京王電車又ハ荻窪行バスニヨリ明大前ニテ下車、甲州街道明大正門ヨリ少シ新宿寄リノ陸橋袂ノ喜楽ト云フ店ニ集マリ明大附近ヲ歩イテ頂キマス」
この案内にある喜楽とは、1階が喫茶、2階が牛鍋や鳥鍋を出す店で、この2階が当日の句会場であった。
風生によれば『手摺にもたれると下の深い谷を帝都電鉄の電車が引きりなしに大きな音を立て走つてをり、向ふ側の住宅の庭には紅梅がぼやつと赤く、そのうしろに明大構内の高い松林が霞んでゐた』という。
現在の明大前駅から、歩道橋で甲州街道を渡ると目の前が明治大学和田校舎の正門である。ここから右に行けばすぐ京王井の頭線の跨線橋があり、その脇にあるkビル(和泉2-8)が喜楽のあった場所である。もちろんビルも建替えられており、喜楽の面影はない。
風生は記す。『舗装された甲州街道、それと併行して一側町のすぐ裏に上水が流れてをり、上水の向ふは明大の構内であつた。その上水の溢れてゐる水がとても美しかつた。(略)明大を門前からその春水に沿つて三四町遡ると本願寺門前になる』
残念ながら、現在の玉川上水はほとんど暗渠となっている。その暗渠の上が細長く緑地となっている。東京区部はいづこもこうした土地改変がなされていて、東京の緑の保全は神社仏閣と細長い緑地ばかりになってしまうのではなかろうか。
和田校舎正門から今度は左に進むと築地本願寺和田堀廟所となるが、そこに至る歩道の右手は土手になっている。おそらくそれが玉川上水の土手だったのだろう。つまり廟所へ向かう歩道は、当時の上水の川底だったのである。
春水に橋また橋や添ひいゆけば 高濱虚子
春風に沿ひゆく廟所詣かな 上林白草居
風生の記録に興味深い一節がある。
『不思議にも水椎二老は揃つてその本願寺に墓地を持つてゐる。そして墓場の中まで娑婆の張り合ひをつづけて行くのだといつてゐる』
武蔵野探勝の常連の二人、後に三菱地所の会長となる赤星水竹居(陸治)も中央公論社初代社長の麻田椎花(駒之助)も偶然にも吟行地である和田堀廟所に墓地があるというのである。
それぞれの墓は『椎花老がその蘊蓄を傾倒して意匠をこらした麻田家累代の墓』、『赤星さんの奥さんのお墓の前にも、紅白の梅がたくさん挿してあつた。そのお隣によりそふやうに小さいお地蔵さんが立つてゐるのは、可哀さうな女中さんのお墓であるといふことであつた。「みんなにお詣して貰つて家内もさだめしー。」と赤星さんはうれしさうであつた』
『場処は高台、見はらしはよし、生垣をめぐらしたり、待合があつたりする贅沢な墓がならび、その間にとびとびに梅が咲いてゐる。(略)墓地といふよりも公園である』
麻田家の墓は廟側二区にある。「麻田墓所、田中墓所」と刻まれた石柱が立っている。風生の言う『意匠をこらした』というのは、釣鐘型の珍しい墓石のことであり、確かに一際目立っている。
赤星家の墓は、廟側一区にある。現在は小さなお地蔵さんはない。その代わり墓石の右手には「莫作庵水竹居」という石碑があり、左手には「著ぶくれて老師まぶかに頭巾かな」という句碑が建っている。
この石碑や句碑については、実は第70回武蔵野探勝に登場する。深沢の赤星邸で開催された「筍の会」とあわせて行われた吟行会の記録に、「莫作庵」の扁額や「著ぶくれて」の句碑のことが記述されている。第70回「閑庭惜春」を紹介するときにあらためて書いてみたい。ただ、この句自体については虚子選にもれたようで武蔵野探勝会としては未掲載となっていて、作句時期は不明である、
さて、最後に和田堀廟所には、もう一人、武蔵野探勝参加者である中村汀女の墓も(旧墓地三側)あることを記しておきたい。
そこには汀女が最も気に入っていたという昭和38年作の俳句が句碑となっている。
雪しづか愁なしとはいへざるも