昭和5年12月3日、虚子は、第5回武蔵野探勝において小金井橋を訪ねている。
一行の待ち合わせ場所は中央(本)線・武蔵境駅で、ここからタクシーに分乗して、まず保谷に向かっている。しかし、適当な吟行地が見つからず、結局小金井橋へ向うこととなった。
当日の記録を担当した赤星水竹居は記す。『小金井橋の側で皆自動車を降りた。蚊杖君が、〆切は四時、此橋を中心に此辺をぶらつくことと、一同に触れ歩いた。』
小金井橋は、当時からすでに桜の名所として知られていた。その名所への来訪客を見込んで、西武鉄道は最も近くにある駅を「花小金井駅」と命名しているほどである。一方、虚子は、わざわざ桜の季節を避けて小金井橋周辺を吟行地に選んだ。それは、以下の水竹居とのやり取りでわかる。
『虚子先生は橋を渡って南側の土手に来て居られた。私は側に行って「ここはよく昔の面影が残っていますね、名勝地として指定されたお陰でせう」と云ふと、先生は、「これでも春の花時に来ると嫌になりますよ」』
確かに、当時の写真を確認すると、狭い橋上は溢れんばかりの混雑である。なるほどこれでは吟行どころではない。
昭和40年に淀橋浄水場が廃止され、この付近の水が止まったことにより、さらに雑木が繁茂してしまった。桜も老木となったことから、現在の桜の名所は、すぐ北側の都立小金井公園に移ってしまっている。
水竹居は、いみじくも武蔵野探勝にこう記している。
『大正十三年十二月内務大臣此地を名勝保存地と指定す、と云ふ大きな掲示板が掲げてある。其の文句の終りに、此名勝地を愛護せられたしとある。これは本当に小金井の老木の桜をいたはるよい文句である』
さて、あらためて武蔵野探勝を読むと、もう一つ気になることがある。
それは、虚子たちが吟行を行う直前に、小金井橋は石橋からコンクリートにレンガを張った橋に生まれ変わっているのである。写生を基本とする武蔵野探勝会であれば、誰一人そのことに気づかなかったということはあり得ない。しかし、武蔵野探勝の句も含めてどこにも橋の描写がないのである。
こうした新しい人工物については、あえて詠まないことが、虚子はじめ当時の俳人たちの俳句的感覚であり、暗黙のルールだったのかも知れない。
さて、やがて一行は、『あふひさんと蚊杖君の斡旋で小金井橋の側の歌舞登と云ふ茶屋の二階を借りて句会は開かれた。冬枯の桜の茶屋では、二十人足らずの俄か客に部屋の掃除やら座布団を運ぶやら大騒ぎであった。』
現在の歌舞登の地は、宅配便営業所となっている。近くには、当時のレンガの橋の記念モニュメントがあり、少しばかり虚子の時代を偲ぶことができる。
小金井や桜の冬木守り住む 虚子
月別アーカイブ: 2023年12月
武蔵野探勝を歩く17「落葉の庭」
昭和六年十二月六日、虚子一行は川越の喜多院を吟行している。参加者の一人である富安風生の記録をもとに紹介したい。
『駅を降りてから星野山無量寿寺喜多院の裏門に逢着するまで、僕等のとった道は、裏道ばかりの、とてもへんなわかりにくい道だった』
当時歩いた風生自身が『とてもへんなわかりにくい道』としているくらいなので、さらに今となっては虚子一行の喜多院への経路を確定することは難しい。ただ、『駅前の、川越甘藷の俵を積んだ倉庫の横っちょみたいなところに這入った』『女学校の寄宿舎の側を通った』という記述があり、この『女学校』は、県立川越女子高校に間違いはないので、東武東上線川越市駅を下車し、女子高のグランド脇の狭い路地に沿ってカトリック川越教会の前を通り、中央小学校の南側の道を通ったのではないかと推察する。
その傍証として、この道から東へ直線を伸ばすと、地図上では喜多院の「どろぼう橋」に突き当たる。そして、この橋の手前にブランコや滑り台などを配した喜多院公園がある。
風生も『鞦韆を揺って居る子供達。鳩に餌を撒いて居る町の小娘達』と記述しており、その他の描写でも、たとえば『ここは裏口なので、城濠のやうな深い濠に、狭いコンクリの橋が架って居るばかりである』などから、虚子たちが「どろぼう橋」から喜多院の境内に入ったであろうと思われるのである。
一方、行きが『とてもへんなわかりにくい道』だったのに対し、帰りは比較的手がかりが多い。
『帰りに通った本通りは、商業会議所があって、郵便局があって、呉服屋があって、肥料問屋があって―どうして中々、立派な町だ。』
現在の商工会議所は、かつて武州銀行だった建物に移転している。
「川越商工会議所100周年記念誌」によれば、当時の『商業会議所』は現在の市民会館の場所にあり、古くからの住民に尋ねると『郵便局』は、現在のNTTの建物のあたりにあったという。これらは松江町、連雀町の交差点から北側の中央通りに集まっており、そうした中心部を抜けて川越市駅への帰路についたのだろう。当時の川越は、埼玉で初めて商業会議所を設置するなど、埼玉県経済の中核であったことも伺われる。
むしろ、私(稜雨)が驚いたのは、『四時四十何分といふ急行の電車は、三十分とたたぬうちにもう、僕等をネオンサインの池袋駅に運んでゐてくれた』という記述である。
現在の東武東上線でも、池袋・川越市間は、急行で三十一分、快速で三十二分、準急で三十八分かかり、各駅停車にいたっては四十五分も要する。それを『三十分とたたぬうちに』とあるのは、昭和初期にしては相当なスピードと言わねばならない。
当時の急行がどこの駅に停車していたのかは分からないが、昭和十六年版「大東京案内図」(旅行案内社)によれば、池袋・川越市間は十八駅。現在の池袋・川越市間は二十二駅である。現在の東武東上線快速が停車する七駅よりは少なかったであろうことは間違いない。
さて、喜多院は奈良時代の創建と伝えられ、数多くの重要文化財を擁する名刹である。今日に至るまで多くの俳人や俳句愛好家が吟行に訪れていることから喜多院そのものの紹介は割愛する。
最後に、当時の虚子一行の句を紹介して筆をおきたい。なお、4句目の山本薊花氏は、私の所属する結社「風の道」の故山本柊花前同人会長のお父上である。
落葉踏む音と小鳥の声とかな 高浜虚子
山茶花の葉にべつとりと鳥の糞 鈴木花蓑
蕭条と枝垂桜の枯れにけり 山口青邨
一人は世話しき様の落葉掻き 山本薊花(「風の道」山本柊花元同人会長の父上)
永く居て薄き秋日にあたたまる 中村草田男
落葉池時々水のふるへ居る 星野立子
茶畑の落葉もつともはなはだし 高野素十
散紅葉深きところに踏み入りぬ 富安風生
玉垣の中に落葉を焚きにけり 大橋越央子
かみゆいとある看板や冬木宿 市川東子房
ちんどん屋師走の街を踊り来る 赤星水竹居