武蔵野探勝を歩く4「雑木林など」

1、はじめに

虚子とその一門は、昭和5年8月から月1度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行は昭和14年まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。
昭和5年11月9日、第四回武蔵野探勝は埼玉県新座市の金鳳山平林寺で行われた。
その吟行記録に、富安風生が『雑木林など』という表題を付けたことからも、虚子が武蔵野らしい景を求めて訪れたことが分かる。
ちなみに、新座市立中央図書館前には国木田独歩のブロンズ像が置かれている。

2、平林寺へ

風生は記す。「武蔵野は今、秋の景色から冬の景色へ装ひをかへようとしてゐるのである。さういう時分の風物を目当に、第四回武蔵野探勝吟行が催ほされた。大体、東上線膝折駅から一里許りを隔てた野火止といふ邑の名刹平林寺を中心とする計画であつた。
日曜。朝の程小雨。午前十時、池袋駅に集合するもの、先生をはじめいつもの顔触れ約二十名。
膝折から自動車を走らせる。
川越街道から岐れて真直な道が十余町。自動車は平林寺の門のところで止る。」
膝折駅は、現在の朝霞駅であり、この吟行の2年後の昭和7年5月10日に改称される。
虚子一行は、平林寺境内に入っていく。
鐘楼、庫裏、本堂、山門、総門をめぐる。本堂の前の庭の大銀杏を見上げる。境内を貫き走る伊豆堀の清流を眺める。
しかし、虚子はこう言う。
「『こんなところにゐては俳句は出来ませんね』
さつき銀杏の落葉の降る下で先生が誰かを顧みて言つて居られた。余り好い気持になり過ぎると心が緊張しないから却て句が纏らぬといふことと思はれる。弁当を済ますと、一人の坊さん―俳号を俳禅寺と呼ぶ、ここから二里許り隔つた寺の住職―が今日折角来てくれての案内で、そのあたりを少し歩くことにした。名を聞いた丈でも、何はともあれ訪ねなくてはならぬ業平塚を先づ志す。」
案内がいるのでは境内を回らざるを得ない。しかし、結局は「先生のお話で披講はこの寺を借りるよりも、どこか附近の百姓家をでもといふことになつた。そしても少し武蔵野の土を踏みながら句想を纏めるがよからうといふことになつた。さつき来た門前の道をぶらりぶらりと川越街道の方へ帰る。」

3、句会場へ

句会場の場所は、風生の記録に明示されている。
「百姓家などという風ではなく古い土蔵をもつた土地の旧家、新井忠次郎氏方の街道に面した座敷を借りて、形の如く披講を始めやうとする頃、どんよりとした夕方の空がぽつりぽつりと時雨をこぼし始めた。」
新井氏宅は、現在の野火止7-11であるが、平成の前回調査の時には砂利を敷いた更地だったが、今回調査(令和5年11月21日)では、「東京ガスライフバル石神井 新座店」という営業所事務所になっていた。そして、その奥は「新座冶金株式会社」だった。
この新井忠次郎氏宅は、現在の県道109号線沿いにある。この県道を歩いてみればすぐわかるように、大きな屋敷や屋敷林が目に飛び込んでくる。まさに当時の川越街道が県道109号線なのである。平林寺の総門を出て左へ。現在の川越街道を通り越えてしばらく行けば、この旧川越街道である。交差点には立派な茅葺屋根の家があるのですぐに知れる。
この交差点を左折してほどなくで新井宅となる。
また、念のため東京日日新聞で当日(11月9日、日曜日)の天気予報を確認すると「北東の風曇り小雨」と書かれてあった。

さて、風生は記録の締めくくりにこう書いている。
「披講が済んで帰りの自動車に乗る時分は、かなり大降りになつてゐた。雨にぼやけたあちこちの家の灯火が木蔭になつて隠れたり又現はれたりする自動車の中で先生は言われた。
『やつぱりあの土手に休んでゐた時が一番気持がよかつたですね』」
虚子の言う『あの土手』というのは、虚子たちが平林寺を出て川越街道へ向かい、「道の片側に沿ふて伊豆堀が流れてゐる。堀のへりは落葉し尽した桜並木である。堀を境して雑木林。また道の他の側は畑―甘藷蔓をたぐねてある畑、大根の畑、枯れかかつた桑の畑なんど。」
「竜胆はかくして枯れて行くべきか 蚊杖
路落葉楢の葉といふ栗といふ 霞人
われわれはかういふ雑木林の眺めを恣にしながら草の土手に腰を卸して休んだ。衾のやうな柔かい土手の草は美しく紅葉している。
腰下ろす末枯草の暖かさ 虚子」
「われわれはここで再び折詰を開いた。そしてこんなこともして打ち興じた。
末枯に餅投げ食ふ遊山かな 虚子
みんながのんびりといい気持であつた。村の娘が自転車を下りて廻しながら恥かしさうに前を通つた。風呂敷を矢筈に背負つた媼さんも通つて行つた。」
平林寺総門を出て、新井氏宅に向かう道程で土手のある場所は、この平林寺沿いの野火止用水の土手以外にない。
実際に、歩いてみると、ちょうど現在の新座市役所の向かい側の辺りから、まさに「腰を卸して休」みたくなる程度の高さとなる。
適当に斜面となっており、厳しい修行の場である禅寺・平林寺の雰囲気とは、比べようもなくのんびりした草の土手であったろう。
かくして風生は、平林寺を訪ねながらも、その吟行記録の表題を「雑木林など」とした。その風生の思いが分かるような気がするのである。