1、句会場について
虚子一行は、昭和5年9月30日に第2回武蔵野探勝「多摩の横山」として百草園を訪れている。
記録の水原秋櫻子が、冒頭に記したのは、吟行地ではなく、句会場となった宿についてであった。
『立川駅に遠からぬ多摩川の岸辺に、「丸芝」といふ鮎漁の宿がある。僅かの庭樹立の向ふはすぐに広い磧であるが、九日の月の暗い光に、川瀬はただ淙々の響を立ててゐるのみである。然しその磧を越えて、極めて模糊とはしてゐるが、多摩の横山が東に向つて連つてゐる姿が見える。我等は今その山を下つて、一里の道を自動車に運ばれて此の宿に着いたのだ。』
丸芝は、現在の立川市錦町五丁目、日野橋のすぐ上流にあった「丸芝館」である。
立川市歴史民俗資料館の「多摩川の漁法と漁具」には、『明治時代、立川近辺には鮎料理の料亭が3軒ありました。(略)多摩川の鵜飼は、江戸時代にはすでに行われていました。昼間に徒歩で行う徒歩鵜(かちう)という方法で、かがり火をたいて夜に行う長良川などで行われている方法とは異なっていました。』とされており、武蔵野探勝当時は、有名な鮎漁場であったことがうかがわれる。
2、「多摩の横山」の謎
吟行地が「多摩の横山」に選ばれたことには、何の不思議もない。
第一回「武蔵野探勝」の吟行地が府中の大國魂神社だった理由は、虚子がその欅並木を武蔵野の風景の典型だと考えたからであった。
同様の考えで、武蔵野の風景るもう一つの典型として、「多摩の横山」を第2回目の吟行地に選んだことも当然と言えば当然のことであったろう。
吟行地である「百草園」についても、今日でも梅の季節には特に賑わいを見せる「京王百草園」であるので、場所を特定するまでもない。
問題は、「百草園」を出た後の虚子たちの経路である。
虚子たちは、「百草園」から高幡不動方面へ多摩の横山を下りる。ところが、この日野市の丘陵地は、日本住宅公団(現在のUR)によって大規模な住宅造成が起こなわれた稀に見る地形改変地なのである。
巨大ニュータウンの誕生によって、虚子たちが歩いた当時の道はほとんど残っていない。また、残っていたとしてもその特定は困難を極める。
したがって、今回の調査は、筆者(藤井稜雨)の推測が大部分を占めることをあらかじめお断りしておく。
3、百草園にて
秋櫻子は記す。『我等は園の北端にある掛茶屋に憩ひつつ、武蔵野の大景に見入つた。』
『秋晴や影一つなき多摩河原 霞人
その向ふは一丘の起伏さへなき平野で、雲際には関東をめぐる名山が一々それと指呼し得るまでに浮び出てゐる。即ち右からかぞへて筑波、日光、赤城、秩父の諸峰である。』
『秋晴や島とも見ゆる遠筑波 拓水
(略)眼の前を蜻蛉がすいすいと飛んでゐる。と思ふと、立川の飛行場からその蜻蛉にまがふ飛行機が舞ひ上つて、爆音高く頭の上をかすめて行く。』
当時は、立川に飛行場があり、その場所は現在の国営昭和記念公園だった。まさに眺めていた多摩川の先、北西方向から飛行機が飛来した。立川飛行場には、昭和3年11月に陸軍航空本部技術部が所沢から移転、4年7月には日本航空輸送株式会社が旅客輸送を開始、5年3月には石川島飛行機製作所が月島から移転して来ている。
立川が軍都として発展している途上にあることがほんのりと見て取れる。
4、虚子たちの道
秋櫻子は記す。『四時半になつて山を下ることにした。一度登つた道を帰るのも興がないので、案内者を雇つてちがふ道を行くことにした。案内者といふのは三人の可愛らしい小娘である。我等はこの小娘を先頭にして、木犀の香る後庭から丘の背へ登りはじめた。』
現在の百草園には、丘陵の尾根筋への出入口はないので、早くも虚子たちの道を追うことが出来ない。しかし、虚子たちが尾根筋を歩いたことは間違いないと思われる。
『秋晴や椢をはじき笹をわけ 虚子
と詠まれた先生を先頭に、
秋山のはげし所に登りけり 普羅
と詠んだ普羅氏を第二陣に。
やがて木立が切れた所に出ると、今までと反対に西南に亘る景色が展けた。富士は惜しいことに雲が立つてゐたけれども、大山や丹沢の山塊は手にとるやうに近かつた。』
現在の百草園の入口から、虚子たちが歩いたであろう尾根を右手に見上げながら百草園通りを進み、百草八幡宮の社務所の下を右に曲がる。
すると「朝日山緑地」という看板が設置されていて『山の峰には小さな祠が祀られていた。そこから富士山がよく見えたという。』と書かれている。
もちろん、秋櫻子の景色が「朝日山緑地」だったとは言い切れない。ただ虚子たちの道が尾根の南側になったらしいとは察せられる。
人の歩く山道は、獣道と違って基本的に尾根筋についているものである。そして尾根筋は通常、県境市境など行政の境界になっていることが多い。そこで、筆者はその道が字の境、すなわち百草と三沢の境にあったと仮定してみた。
すると、道は三角点公園の交差点から市立七生緑小学校の真中を突っ切り百草台自然公園の最高点を通っていることになる。
秋櫻子は『(西南の)その方面へ下る道もあるけれど、先を急ぐ我等は、それ等の山に別れをつげて、やはり多摩川へ向ふ谷へ下りて行つた。』としているので、この公園のピーク付近から多摩川方面へ下りたのではないかと思われる。
地図を見ると、百草方面から高幡不動へ下りる道は3本ある。そのうちの一つは湯沢橋から川崎街道の百草団地入口交差点へ下りる道だが、この道は広い道なので虚子の道とは思えない。
もう一本は、八幡神社の東を通る道だが、これは遠回りになり『先を急ぐ我等』が通ったとは思えず、また、わざわざ?案内人を付けた意味がない。そこで、八幡神社の西を通っていく道だろうと見当をつける。
秋櫻子は記す。『小娘は若干の礼を貰つた嬉しさに、幾度か頭を下げて別れて行つた。我等は有名な不動尊のある高幡の町を目指して歩いた。道の左右は稲田と桑畑である。と、道端に堀抜きの水が湧き出て流れてゐた。きれいな水であつた。然しそれよりも驚くべき事はその傍の家の庭に大きな堀抜きが噴水のように立ちのぼつて見えたのであつた。「素晴らしいものだ」と言ひ合つて眺めてゐると、「どうぞ御這入りなさつて御覧下さい」と、お内儀さんらしい人が自慢げに案内して呉れた。』
高幡不動へ向かうには川崎街道に出なければならない。川崎街道へ出るまでの下り道は切り立った崖であり、道の左右に稲田と桑畑はあり得ないので、すでに川崎街道へ出てからの描写と思われる。
そして、この噴水のように立ちのぼる堀抜きを地元の人たちに尋ねまわると、現在のファミリーレストラン「ガスト高幡不動店」(三沢2-33)の裏手にあったというのである。
虚子たちが下りてきたと推定した八幡神社の西の道が川崎街道とぶつかるやや高幡不動側に「ガスト高幡不動店」があるので、八幡神社西の道との推定は、秋櫻子の記述と矛盾していない。
念のために、他の下山ルートに沿って、件の堀抜きについて聞いて回ったが、それを記憶している人は皆無だった。
5、虚子の附記
秋櫻子の記録に、虚子はわざわざ追記を付している。
『京の東山は柔かい線を紫の空に描き出してゐるので有名だが、これはどこ迄もなだらかな単調な線を武蔵野の西に横たへてゐる。多摩の横山と万葉の歌人が此の丘を呼んだ心持も受取れる。』
虚子が武蔵野探勝を始めるに際しての思いを、あらためて付記せずにはいられなかったのだと思われる、虚子にとってはそれほどに思い出深い吟行だったのだろう。