9月23日は、「風の道」創刊38周年年次大会が渋谷区で開催されました。
渋谷は、駅を降りるたびに歩行ルートが異なるという不思議な街ですので、とりあえずヒカリエと渋谷警察を見つけ一安心。
大会では、大高霧海主宰のお元気な姿に一安心。久しぶりに会う方のお元気な姿に喜ぶという年次大会ならではのスタートとなりました
ごくわずかの人に採っていただいた、この日の私の3句。
がらぽんの玉みな外れ鰯雲
コスモスと遊ばぬ風のなかりけり
くずし字をひとつ覚えて秋燈
月別アーカイブ: 2023年9月
下総日常探勝11
9月21日、千葉県俳句作家協会の秋季吟行会が流山市で開催されました。
県下の俳人74人が集い、懇親の輪を広げることが出来ました。
多大なるご協力をいただいた流山俳句協会の皆様、流山市ボランティアガイドの皆様、そして運営に携わって下さった作家協会の皆様に心から感謝いたします。本当に有難うございました。
私は、ほとんど会場内にいましたので、思うような吟行はできませんでしたが、ともかくも無事に終えてほっとしています。
武蔵野探勝38「小合溜」
1,はじめに
虚子一行は、38回目の武蔵野探勝として、昭和8年9月3日に金町を訪れている。
その記録は、「小合溜」と題して、本田あふひが残している。
『九月三日、残暑の烈しい日であつた。午前九時四十五分上野を発車したが、幹事の蚊杖さんが見えないのでどうしたことかと思つた。金町に下車して、幹事は見えないが今日の先導役である菖蒲園さんが一行中にあつたのでそろそろと目的地へ向ふことになつた。』
菖蒲園とは、為成善太郎の俳号である。京成本線「千住大橋駅」から徒歩5分ほどの旧日光道(千住河原町22付近)に「やっちゃ場の地」という石碑が建てられている。ここにあった市場で大喜という青物問屋を営んでいたのが菖蒲園である。
「やつちや場の主となりて昼寝かな」という句を残している。
『横町からえらい勢いで一台の自動車が現れた。見ると蚊杖さんが乗つてゐる。九時四十五分発の時間を五十分と通知された為に、御当人の蚊杖さんはじめ乗り遅れた仲間があつたので、自動車を雇うて汽車のあとを飛ばして来られたのだとのことであつた。早速其自動車を借用して足弱組が、今日の会場である小合溜へ向かつた。』
2、句会場について
あふひは記す。『二つの大きな沼があつて、其間を桜並木の堤が通つてゐる。其堤の下の一軒の百姓家が今日の会場である。門の入口に納屋があつて其中に鉄砲風呂が据ゑつけてあるのがよく見える。』『床の間には刀掛に刀がかけてある。黒光りに輝いてゐる仏壇もある。土間も広々とある。
土間涼し梁にかけたる藁筵 水竹居
下駄箱や胡瓜の籠や土間涼し 同』
この記述は、当然のことながら水元公園ができる前の風景である。
まず二つの沼が、小合溜の内溜と外溜であることは間違いない。そして、その間の堤は現在でも桜並木となっている。
記述から、香取神社側の現在の東水元二丁目38か40に句会場となった百姓家があったはずである。
該当する家は4軒ほどあるので、聞いて回ると「門があったのならMさんだろう」とのこと。ただ、その東水元の該当の番地は、現在有料老人ホーム建設中でありMさんのお話は伺えなかった。
『例に依つて落ち着いたら直ぐお弁当にして仕舞ひましようと先生はいはれた。時計を見たら十一時であつた。この沼には鯰釣り、鮒釣りなどがあちこちと沢山跔んでゐる。そして直径四五尺位の大きな蓮の葉に一面にトゲが出てゐるのが沢山に浮いてゐる。それが鬼蓮であつた。』
NPO法人水元ネイチャープロジェクトの「創立20周年記念誌 ~水元の自然を次世代に~」に、大滝末男氏による昭和33年の調査の図がある。それを見ると、鬼蓮は香取神社を背にした右手、現在の水元大橋の外側の小合溜南側に広く点在している。
百姓家を出て、東の小合溜へ向かえば鬼蓮を見ることになるので、この点からもやはり句会場はM宅だろうと思われる。
3、鬼蓮の後は
『だんだん雨雲が湧き立つて
夕立風桜落葉のしきりなる 京童
遥かに見えてゐた舟もいつの間にか一舟もゐなくなつてゐた。(略)皆はほとりにあつた一軒の茶店にかけ込んだ。』
「全住宅精密図帳 葛飾区版1963」には、現在の水元公園の「お食事処 涼亭」の場所に、大沼さんという一軒家があることが表示されている。
これも聞いて回ると涼亭(りょうてい)の場所で、大沼家が食事を出すお店を開いていたことがわかり、そこが雨宿りの茶屋に間違いなさそうである。
『すぐ雨は晴れて、茶店を出て土手を歩くと又じりじりと暑くなつた。
茶屋の婆外に出て見る夕立晴 虚子
百姓家に戻つて選句にとりかかつた。』と、あふひは記録を結んでいる。
下総日常探勝10
俳人協会の会報「俳句文学館」9月5日号の「この一冊」のコーナーに、旧知の林誠司さんの著書『俳句再考』が紹介されていました。
実は、私としては誠司さんに「良書でした」と拙いながらも感想を送らせていただくつもりでした。ところが、これが書けないのです。書きたい部分が多すぎて長文になってしまうのです。
これまで俳句を作るうえで、また鑑賞するうえでさまざまに議論されてきたことを、本当にすっきりさせてくれ、多くの気づきを与えてくれたと書きたいのですがうまく書けないのです。
紹介する鈴木久美子さんが、これまた実に見事なまとめ方で、「そうそうそれが言いたかったのだ」と相槌を打ちながら「この一冊」を読ませていただきました。
誠司さんに書いていただいた「俳諧自由」の言葉を、いま改めて噛みしめています。
下総日常探勝9
千葉県俳句作家協会の「秋の俳句短冊展」の季節となりました。
千葉県民文化祭の企画の一つで、現在、千葉そごうの地階ギャラリーで開催中です。
私の拙句も末席に展示していただいています。「まだ魚になり切れぬ雲赤とんぼ 稜雨」
短冊を書くことについては、恥ずかしさばかりで楽しさは全くありません。
ただ、短冊を書かねばならないと追い込まれると、そのときばかりは書道を学ばねばという心地良い向上心がちょっぴり湧き上がってきます。
武蔵野探勝を歩く2「多摩の横山」
1、句会場について
虚子一行は、昭和5年9月30日に第2回武蔵野探勝「多摩の横山」として百草園を訪れている。
記録の水原秋櫻子が、冒頭に記したのは、吟行地ではなく、句会場となった宿についてであった。
『立川駅に遠からぬ多摩川の岸辺に、「丸芝」といふ鮎漁の宿がある。僅かの庭樹立の向ふはすぐに広い磧であるが、九日の月の暗い光に、川瀬はただ淙々の響を立ててゐるのみである。然しその磧を越えて、極めて模糊とはしてゐるが、多摩の横山が東に向つて連つてゐる姿が見える。我等は今その山を下つて、一里の道を自動車に運ばれて此の宿に着いたのだ。』
丸芝は、現在の立川市錦町五丁目、日野橋のすぐ上流にあった「丸芝館」である。
立川市歴史民俗資料館の「多摩川の漁法と漁具」には、『明治時代、立川近辺には鮎料理の料亭が3軒ありました。(略)多摩川の鵜飼は、江戸時代にはすでに行われていました。昼間に徒歩で行う徒歩鵜(かちう)という方法で、かがり火をたいて夜に行う長良川などで行われている方法とは異なっていました。』とされており、武蔵野探勝当時は、有名な鮎漁場であったことがうかがわれる。
2、「多摩の横山」の謎
吟行地が「多摩の横山」に選ばれたことには、何の不思議もない。
第一回「武蔵野探勝」の吟行地が府中の大國魂神社だった理由は、虚子がその欅並木を武蔵野の風景の典型だと考えたからであった。
同様の考えで、武蔵野の風景るもう一つの典型として、「多摩の横山」を第2回目の吟行地に選んだことも当然と言えば当然のことであったろう。
吟行地である「百草園」についても、今日でも梅の季節には特に賑わいを見せる「京王百草園」であるので、場所を特定するまでもない。
問題は、「百草園」を出た後の虚子たちの経路である。
虚子たちは、「百草園」から高幡不動方面へ多摩の横山を下りる。ところが、この日野市の丘陵地は、日本住宅公団(現在のUR)によって大規模な住宅造成が起こなわれた稀に見る地形改変地なのである。
巨大ニュータウンの誕生によって、虚子たちが歩いた当時の道はほとんど残っていない。また、残っていたとしてもその特定は困難を極める。
したがって、今回の調査は、筆者(藤井稜雨)の推測が大部分を占めることをあらかじめお断りしておく。
3、百草園にて
秋櫻子は記す。『我等は園の北端にある掛茶屋に憩ひつつ、武蔵野の大景に見入つた。』
『秋晴や影一つなき多摩河原 霞人
その向ふは一丘の起伏さへなき平野で、雲際には関東をめぐる名山が一々それと指呼し得るまでに浮び出てゐる。即ち右からかぞへて筑波、日光、赤城、秩父の諸峰である。』
『秋晴や島とも見ゆる遠筑波 拓水
(略)眼の前を蜻蛉がすいすいと飛んでゐる。と思ふと、立川の飛行場からその蜻蛉にまがふ飛行機が舞ひ上つて、爆音高く頭の上をかすめて行く。』
当時は、立川に飛行場があり、その場所は現在の国営昭和記念公園だった。まさに眺めていた多摩川の先、北西方向から飛行機が飛来した。立川飛行場には、昭和3年11月に陸軍航空本部技術部が所沢から移転、4年7月には日本航空輸送株式会社が旅客輸送を開始、5年3月には石川島飛行機製作所が月島から移転して来ている。
立川が軍都として発展している途上にあることがほんのりと見て取れる。
4、虚子たちの道
秋櫻子は記す。『四時半になつて山を下ることにした。一度登つた道を帰るのも興がないので、案内者を雇つてちがふ道を行くことにした。案内者といふのは三人の可愛らしい小娘である。我等はこの小娘を先頭にして、木犀の香る後庭から丘の背へ登りはじめた。』
現在の百草園には、丘陵の尾根筋への出入口はないので、早くも虚子たちの道を追うことが出来ない。しかし、虚子たちが尾根筋を歩いたことは間違いないと思われる。
『秋晴や椢をはじき笹をわけ 虚子
と詠まれた先生を先頭に、
秋山のはげし所に登りけり 普羅
と詠んだ普羅氏を第二陣に。
やがて木立が切れた所に出ると、今までと反対に西南に亘る景色が展けた。富士は惜しいことに雲が立つてゐたけれども、大山や丹沢の山塊は手にとるやうに近かつた。』
現在の百草園の入口から、虚子たちが歩いたであろう尾根を右手に見上げながら百草園通りを進み、百草八幡宮の社務所の下を右に曲がる。
すると「朝日山緑地」という看板が設置されていて『山の峰には小さな祠が祀られていた。そこから富士山がよく見えたという。』と書かれている。
もちろん、秋櫻子の景色が「朝日山緑地」だったとは言い切れない。ただ虚子たちの道が尾根の南側になったらしいとは察せられる。
人の歩く山道は、獣道と違って基本的に尾根筋についているものである。そして尾根筋は通常、県境市境など行政の境界になっていることが多い。そこで、筆者はその道が字の境、すなわち百草と三沢の境にあったと仮定してみた。
すると、道は三角点公園の交差点から市立七生緑小学校の真中を突っ切り百草台自然公園の最高点を通っていることになる。
秋櫻子は『(西南の)その方面へ下る道もあるけれど、先を急ぐ我等は、それ等の山に別れをつげて、やはり多摩川へ向ふ谷へ下りて行つた。』としているので、この公園のピーク付近から多摩川方面へ下りたのではないかと思われる。
地図を見ると、百草方面から高幡不動へ下りる道は3本ある。そのうちの一つは湯沢橋から川崎街道の百草団地入口交差点へ下りる道だが、この道は広い道なので虚子の道とは思えない。
もう一本は、八幡神社の東を通る道だが、これは遠回りになり『先を急ぐ我等』が通ったとは思えず、また、わざわざ?案内人を付けた意味がない。そこで、八幡神社の西を通っていく道だろうと見当をつける。
秋櫻子は記す。『小娘は若干の礼を貰つた嬉しさに、幾度か頭を下げて別れて行つた。我等は有名な不動尊のある高幡の町を目指して歩いた。道の左右は稲田と桑畑である。と、道端に堀抜きの水が湧き出て流れてゐた。きれいな水であつた。然しそれよりも驚くべき事はその傍の家の庭に大きな堀抜きが噴水のように立ちのぼつて見えたのであつた。「素晴らしいものだ」と言ひ合つて眺めてゐると、「どうぞ御這入りなさつて御覧下さい」と、お内儀さんらしい人が自慢げに案内して呉れた。』
高幡不動へ向かうには川崎街道に出なければならない。川崎街道へ出るまでの下り道は切り立った崖であり、道の左右に稲田と桑畑はあり得ないので、すでに川崎街道へ出てからの描写と思われる。
そして、この噴水のように立ちのぼる堀抜きを地元の人たちに尋ねまわると、現在のファミリーレストラン「ガスト高幡不動店」(三沢2-33)の裏手にあったというのである。
虚子たちが下りてきたと推定した八幡神社の西の道が川崎街道とぶつかるやや高幡不動側に「ガスト高幡不動店」があるので、八幡神社西の道との推定は、秋櫻子の記述と矛盾していない。
念のために、他の下山ルートに沿って、件の堀抜きについて聞いて回ったが、それを記憶している人は皆無だった。
5、虚子の附記
秋櫻子の記録に、虚子はわざわざ追記を付している。
『京の東山は柔かい線を紫の空に描き出してゐるので有名だが、これはどこ迄もなだらかな単調な線を武蔵野の西に横たへてゐる。多摩の横山と万葉の歌人が此の丘を呼んだ心持も受取れる。』
虚子が武蔵野探勝を始めるに際しての思いを、あらためて付記せずにはいられなかったのだと思われる、虚子にとってはそれほどに思い出深い吟行だったのだろう。
武蔵野探勝を歩く24「竜淵寺」
1、参加者のこと
昭和7年7月3日、虚子一行は熊谷を訪れた。
星野立子は、こう記している。『上野を九時五十分発の小山行の汽車は、そんなに混んでゐなかつた。汽関車の次の箱にみんなゆつくりと腰かけることが出来た。大阪から、先月の末頃に上京された青木稲女さんが加はり、かならず顔の見える風生さんが御病気で欠席。熊谷に着くと、丁度来熊中の耿陽さんをはじめ、一宿、秀峰、露文、啓翠、一路、鴨石の熊谷の方々が出迎ひに来てゐられた。』
また、末尾のところでは『この日は凡て熊谷の凌霄花発行所の世話で、特別誂の名産五家宝のお土産を銘々がかかへて、汽車に乗り込んだのは五時二十分頃であつた。』としている。
まず、岡田耿陽の『丁度来熊中』の理由は、生業の生糸の買い付けでしばしば熊谷を訪れていたからである。そして、その際定宿としていた田島屋(現在の八木橋百貨店の近くに所在)の主が田島一郎、すなわち一宿である。
熊谷俳句会のリーダー的存在である一宿や一路(柿原清二。農商務省退職後、絹物問屋「柿原商店」を継ぐ)は、昭和2年に「熊谷ホトトギス会」を結成、俳誌「コスモス」を発行していた。この「コスモス」誌が、昭和6年には「凌霄花」誌となっていたため、立子は『凌霄花発行所の世話で』と述べているのである。ちなみに「凌霄花」の雑詠の選にあたっていたのは耿陽である。
昭和2年に、すでに熊谷ホトトギス会を結成していたことからもわかるように、虚子たちはこの時初めて熊谷に来たという訳ではない。
大正13年10月には、たけし、一水、夏山、青邨らが茸狩りをし、一宿、一路らとともに福田鉱泉に行き、その後星渓園で句会を開いている。また、大正15年2月には虚子を迎えて星渓園で記念句会を盛大に催した記録が残っている。
さらに言えば、熊谷の隣の行田には川島奇北がおり、一宿らは奇北の指導も受けていた。
こうした関係性の深さがあればこそ、『特別誂の名産五家宝のお土産を銘々がかかへて』が腑に落ちるのである。
2、吟行地「星渓園」
立子は記す。『二台のバスは熊谷の町を通り過ぎて、星渓園といふ庭園を見るために途中で止まつた。』
ここは、熊谷宿の本陣竹井家を継いだ竹井澹如(たんじょ)が造った回遊式の名園である。湧き出る水が玉のように美しいことから「玉の池」と呼ばれる泉がある。
『苔をふみ泉をめぐるわれ等かな 夢香
はつきりと鯉の見えをる泉かな 露文
白扇を使えばうつる泉かな たけし』と言った句が作られている。特に、山口青邨は星渓園が気に入り、その後も何度も訪れており、昭和25年11月の句会での『夕紅葉鯉は浮くまま人去りぬ』という句が句碑として立っている。
3、本来の吟行地「竜淵寺」
立子は記す。『再びバスに乗つて、細い田圃道をゴツトンゴツトンと又小十分程。やがて一むらの杉木立の中に藁葺の大寺が隠見して見える。其が今日の目的地である竜淵寺である。』
竜淵寺は行田の忍城主であった成田氏の菩提寺である。
『本堂の裏座敷で中食のおべん当を開いて、運ばれた鯉こくに満腹して、思ひ思ひに外に出た。』
『往きがけにも気はついてゐたのだが、一軒の百姓家では、老夫婦が麦を打つてゐるのがあつた。断つてみんなその庭に這入らせてもらふ。
麦打つや蝶々とべる花葵 虚子
子の頭そつてをりけり麦むしろ 拓水
麦うちの埃の中の花葵 あふひ
麦打の家もありけり農休み 啓翠』
さて、現在の竜渕寺(現在では「渕」と表示)を訪ねると、鐘楼の手前に虚子の句碑が立っている。
『裸子の頭そりをり水ほとり』という句碑である。
これは、先の小林拓水の句「子の頭そつてをりけり麦むしろ」と全く同じ景であり、虚子がこの百姓家の庭で作った句である。
非常に似た景であったために、虚子は拓水の句を取り、自分の句は取らなかったのであろう。
この百姓家は、竜渕寺の参道を出てまっすぐ進んだ川べりの左側、秋元家である。
私(稜雨)が最初に訪ねた時にも、この裸子であるHさんはお亡くなりになっていて、お話を伺うことが出来なかった。
ただ、ご住職からHさんが8歳の夏のことであり、ご本人はもちろん武蔵野探勝で自分のことが詠まれているなど知る由もなかった。
ましてや、回りまわって、昭和46年5月に立派な句碑として、ご自分の日常の姿が残されたことも知らなかった。
御存命であれば、是非ともご心情を伺いたかったと思うのである。