武蔵野探勝を歩く1「欅並木」

1、虚子たちはどのように来たのか

虚子の記録は町を描写している。
『大國魂神社の前に、府中の町と直角をなしてをる馬場があって、其馬場の両側に、今は保護天然物になつてをる沢山の欅並木がある。五六町の間も続いてをつて頗る見事なものである。』
ここでいう「馬場」とは何か。一応、現在の馬場大門けやき並木の通りと解釈する。
さて、虚子一行はどうやって府中に来たであろうか。
府中本町駅も府中駅もすでに開業していた。特に京王線は昭和3年には新宿から北八王子まで開業していた。しかし、おそらく虚子たちは乗合自動車できたものと思われる。
それは次の二つの記述である。
『欅並木の馬場は中央線の国分寺駅からこの府中町に往復する乗合自動車が通る路になつている』
『初め街道から反れて少し這入つたところには人家が並んでをる。氷屋とか理髪店とかいふものに交つて警察署もある、やつちやばもある。(略)しばらく行くと、人家がもうなくなつて欅並木の左右は大方畑になつてゐる。丁度電車の踏切がある、その踏切を越えたあたりから物静かになつて心が落ち着いて来る。』との2つの記述である。
二つ目の記述の『初め』は、最初に街道のどこか地点からどこかの道に入ったことを示している。
氷屋は鎌内燃料氷店と思われ、現在の宮西町2丁目4-3アイスバーグビル。理髪店は無くなってしまったが同町2丁目にあった榎本理髪と思われる。すると虚子の入った道は旧甲州街道と思われる。
また「やっちゃば」が、現在の多摩信用金庫府中支店の場所にあった青果市場だとすると、「踏切」は現在の府中駅のガードということになるので、府中駅から歩いたとするとこのような記述にはなり得ない。旧甲州街道を自動車できたと考えるのが自然である。

2、参加者

虚子の記録による俳句から、風生、杣男、野菊、たけし、立子、まさを、水竹居、秋櫻子、蚊杖、あふひ、椎花、京童、夏山、吉人、越央子、花蓑、夢香、友次郎、霞人、煤六、雨意、すすむの23人と安養寺の文堂住職、そして籐椅子会の調査によって榎本野影住職、その弟さんの榎本武次郎氏の26人まで確認できる。

3、籐椅子会の調査とその後

籐椅子会の記録によれば、府中の福井草一氏が、たまたま西蔵院(是政3丁目)を訪ねた折、本堂左にあった展示ケースのなかに武蔵野探勝の句会での短冊があることを発見したという。
大変感激し、福田氏は後に、この時の虚子の句「秋風や欅のかげに五六人」の句碑を、大変なご苦労の末に立てた。この句碑は、かつて青果市場があった宮西町1丁目5-1付近の欅の下に立っている。
また、当時の句会に参加した煤六こと上林白草居の句碑が安養寺に立っている。煤六と文堂氏の間にも何かつながりがあったのかも知れない。
さて、私も非常に気になっていた句会短冊を拝見するために西蔵院を訪ねた。ところが、本堂脇にあるはずの展示ケースが見当たらない。
今では何処へしまい込んだか分からないとのことであった。武蔵野探勝の吟行から93年、籐椅子会の吟行からでさえ39年たっているのでは当事者・関係者はほとんどお亡くなりになっている。やむを得ないことと思う。
私は「もし見つかったらご連絡を」とお願いして辞すしかなかった。