武蔵野探勝を歩く25「武蔵水郷」

1、なぜ「武蔵水郷」だったのか

昭和7年8月7日、虚子一行は「武蔵水郷」と称した吟行において、千葉県野田市を訪れている。
一行は、まず野田駅(現在の東武線野田市駅)に降り立ち、野田醤油株式会社(現・キッコーマン株式会社)の第七工場(現在の「キッコーマンむらさきの里ものしりしょうゆ館」の場所にあった)を見学をする。
記録者の山口青邨は記す。『「蠅がゐますね」「之は蠅ではありません、麹虫といふのです」野田の醬油工場を見学している時の会話である、十六リツトルの樽詰、一日五千樽を製造する亀甲万の工場である。今日は醤油会社の俳人達が案内の労を取って、水郷松伏に遊ばうといふのであるが、野田の駅から工場が直ぐなので、一寸見学することにしたのである。』
発酵工場、醤油絞り、樽詰め、容量検査など一通りの見学を済ませた後、清水公園へ移動する。
野田の町は、『折からの旧暦の七月八日で、家々には七夕竹が立てある、一行は図らざる今日の日に会して「七夕」「七夕」と言つて喜んだ。
軒並の七夕竹や野田の町 あふひ』
『清水公園の衆楽館といふ家に行く。』『ここで昼の食事をする。それから自動車に乗つて松伏に向ふ、松伏といふ処はまだあまり知られてゐないが古利根に沿うた町で―その裏の古利根の水は大閘門によつて、堰きとめられ、バック・ウォーターがずっと上流まで、まんまんとたたえてゐる―といふ処なのである。』
清水公園とは、醤油醸造家の茂木柏衛氏が建設した公園で、昭和5年5月に開園されているので、虚子たちは開園してそれほど経っていない時に訪れたことになる。公園内には聚楽館があるので、衆楽館は誤植か青邨の誤記であろう。
ちなみに、清水公園は現在でも市民や東葛地域の人たちの憩いの場であり、筆者(稜雨)も松戸市立小金小学校低学年時の遠足で初めて訪れている。
さて、午前中を野田で過した虚子一行は、いよいよ本来の吟行地である松伏に向かう。その向かった先が武蔵野探勝第25回の表題となっている「武蔵水郷」であった。
「武蔵野探勝」有峰書店版には、巻末に「探勝地名図および一覧」が付けられているが、地図にも一覧表にも「野田」が記されていない。これは一体どういうことであろうか。

2、「武蔵水郷」とは何か

そもそも「武蔵水郷」という名称が、当時はあったのかどうか分からない。
私(稜雨)は、青邨が『古利根の水は大閘門によつて堰きとおめられて』と記しているように、古利根の寿橋に古利根堰が完成して、初めて水郷と称するようになったのであり、にわかに出来上がった言葉ではないかと推察する。
青邨は記す。『船の来る間、岸に立つてあたりを眺める。(略)テントを張つたり、腰掛を置いたりして、一寸広い岸になつてゐる、田舎娘がよい帯をしめて、四五人立つてゐる。十五六人の子供等が真黒に焼けてわいわいと騒いで泳いでゐる。「かうして見ると日本人のやうじやないね」「全く土人だね」「これだから日本は水泳が強いんだ」もぐつた子供は藻をがぶつて現れる、まるで河童だ。』
『水の真中に浮ドツクがあつて、泳ぎ疲れた人が休んでゐる、「夏の村」と白く染め抜いた赤い大旗が高く水中に立つてゐる、ベーロン舟がドラを叩いで漕いで来る、(略)対岸の泳場の入口には櫓をかけて、馬鹿囃子をやつている―兎に角水も陸も賑やかである。
葛飾や涼み場にある馬鹿囃子 椎花』
刊行したばかりの「松伏町史 資料編 近代・現代」(令和5年3月24日)には、「武蔵水郷夏の村」のパンフレットの写真が紹介されている。
資料には、昭和7年7月の「武蔵水郷夏の村開設式挙行案内」が掲載されており、その主催者の中に、当時の埼玉県醤油醸造組合頭取・石川仁平治氏や野田の茂木邦吉氏らが名を連ねられている。石川氏は、野田醤油株式会社設立の8家の一人であることから、この「武蔵水郷夏の村」という当時としては画期的なレジャーランドの誕生に、野田醤油が大きく関わっていたことは間違いない。
見方を変えれば、7月10日に開園したばかりの「武蔵水郷夏の村」の宣伝に、ホトトギス社も一枚加わってもらおうということであり、虚子たちもそれに乗ったとみるのが自然である。
青邨が、わざわざ武蔵野探勝の記録の末尾に『この吟行に於て野田醤油会社に色々御世話になつたことを特記して感謝の意を表する』と記したように、この第25回武蔵野探勝そのものが、野田醤油の全面協力において実施されたものであることから、そんなことを想像するのである。言うまでもなく、吟行が宣伝に使われること、宣伝に乗って吟行を行うことは悪いことでもなんでもなく、むしろ武蔵野の一面を広く紹介し、俳句界において吟行を活発化させることにつながれば大いにプラスになると解される。

3、参加者

虚子、青邨、あふひ、花蓑、夏山、まさを、椎花、蚊杖、拓水、京童、つる女、白山、風生、たけし、東子房、立子、奈王。このほかに、間違いなく野田醤油の社員である人達が加わっているはずなのだが、どなたかは調査できていない。

4、句会場「石塚屋」

青邨は記す。『遊船が来た、一同乗る、氷、ビール、塩煎餅などが用意されてある、野田の人達の好意である。』『船は上流へと漕ぎ上る、両岸のうつり変る景色を眺めて行くのは嬉しい、右手は松伏の町筋である』『やがて船は今日の披講場である石塚屋の裏に着く。船を下りて上る。』
この石塚屋は、『割烹石塚家』『和風レストラン うなぎ以志津香』として、現在も営業している。虚子が武蔵野探勝の中で句会場として使った店が現在も残っていることは非常にうれしい。
石塚家は、古利根の堂面橋近くにある。現在は古利根に面していない松伏2243が所在地となるが、店内から駐車場の向こうに古利根に沿って走る主要地方道春日部松伏線を行き交う自動車の流れが見える。
『二階に三十人も坐つたら狭い位であつた、日はもう落ちかかつてゐるが木の間を通してさし込む火箭のやうな日射は鋭かつた、先生は泰然としてその西日を背負つて句を書いて居られる。帰りは越ケ谷へ出て、そこから東武線で一路浅草へ向つた―ここに遊ぶには之が順路である。』
青邨の記録の締めくくりも何となく武蔵水郷へ誘っているようである。

武蔵野探勝を歩く1「欅並木」

1、虚子たちはどのように来たのか

虚子の記録は町を描写している。
『大國魂神社の前に、府中の町と直角をなしてをる馬場があって、其馬場の両側に、今は保護天然物になつてをる沢山の欅並木がある。五六町の間も続いてをつて頗る見事なものである。』
ここでいう「馬場」とは何か。一応、現在の馬場大門けやき並木の通りと解釈する。
さて、虚子一行はどうやって府中に来たであろうか。
府中本町駅も府中駅もすでに開業していた。特に京王線は昭和3年には新宿から北八王子まで開業していた。しかし、おそらく虚子たちは乗合自動車できたものと思われる。
それは次の二つの記述である。
『欅並木の馬場は中央線の国分寺駅からこの府中町に往復する乗合自動車が通る路になつている』
『初め街道から反れて少し這入つたところには人家が並んでをる。氷屋とか理髪店とかいふものに交つて警察署もある、やつちやばもある。(略)しばらく行くと、人家がもうなくなつて欅並木の左右は大方畑になつてゐる。丁度電車の踏切がある、その踏切を越えたあたりから物静かになつて心が落ち着いて来る。』との2つの記述である。
二つ目の記述の『初め』は、最初に街道のどこか地点からどこかの道に入ったことを示している。
氷屋は鎌内燃料氷店と思われ、現在の宮西町2丁目4-3アイスバーグビル。理髪店は無くなってしまったが同町2丁目にあった榎本理髪と思われる。すると虚子の入った道は旧甲州街道と思われる。
また「やっちゃば」が、現在の多摩信用金庫府中支店の場所にあった青果市場だとすると、「踏切」は現在の府中駅のガードということになるので、府中駅から歩いたとするとこのような記述にはなり得ない。旧甲州街道を自動車できたと考えるのが自然である。

2、参加者

虚子の記録による俳句から、風生、杣男、野菊、たけし、立子、まさを、水竹居、秋櫻子、蚊杖、あふひ、椎花、京童、夏山、吉人、越央子、花蓑、夢香、友次郎、霞人、煤六、雨意、すすむの23人と安養寺の文堂住職、そして籐椅子会の調査によって榎本野影住職、その弟さんの榎本武次郎氏の26人まで確認できる。

3、籐椅子会の調査とその後

籐椅子会の記録によれば、府中の福井草一氏が、たまたま西蔵院(是政3丁目)を訪ねた折、本堂左にあった展示ケースのなかに武蔵野探勝の句会での短冊があることを発見したという。
大変感激し、福田氏は後に、この時の虚子の句「秋風や欅のかげに五六人」の句碑を、大変なご苦労の末に立てた。この句碑は、かつて青果市場があった宮西町1丁目5-1付近の欅の下に立っている。
また、当時の句会に参加した煤六こと上林白草居の句碑が安養寺に立っている。煤六と文堂氏の間にも何かつながりがあったのかも知れない。
さて、私も非常に気になっていた句会短冊を拝見するために西蔵院を訪ねた。ところが、本堂脇にあるはずの展示ケースが見当たらない。
今では何処へしまい込んだか分からないとのことであった。武蔵野探勝の吟行から93年、籐椅子会の吟行からでさえ39年たっているのでは当事者・関係者はほとんどお亡くなりになっている。やむを得ないことと思う。
私は「もし見つかったらご連絡を」とお願いして辞すしかなかった。

武蔵野探勝を歩く0

1、虚子が武蔵野探勝を始めた理由と吟行地の選定

武蔵野探勝を始めるにあたり、虚子は第一回「欅並木」の中で、こう語っている。
『京洛の景色のみあこがれて、東京近傍にも亦た関東特有の風景があることを忘れたやうなものがあることは慨はしいことである。先づ第一番に閑却してならぬものは武蔵野である。』そして、武蔵野特有の景色は『京洛近傍の天地には見ることの出来ない趣である。』とした。
そこで『吟行会を催して、其等武蔵野の俤を尋(ママ)ね、句を徴し、文を綴つて見ようと思ひ立つた。さうして、先づ一番に「欅の並木」を題材にしようと思ひ立つた。』
これが武蔵野探勝を始めた理由であり、その第一回目を欅並木が有名な府中の大國魂神社にした理由である。

2、参加者

ホトトギスの主要メンバーの一人である安田蚊杖が幹事役となり、坊城家出身の本田あふひが世話役という形で、百回の吟行が行われたが、ホトトギスとは無関係の人もいたことが確認されている。
たとえば、第一回「欅並木」では、披講場所となった叡光山安養寺の住職。この方は文堂という俳人なので、ホトトギス関係者であることが想像される。むしろ、この方がいたからこそ虚子は府中を吟行地にしたのかも知れない。
また、「武蔵野探勝」を丹念に調査し、吟行会を行っていた「籐椅子会」(野村久雄会長)によれば、西蔵院の榎本野影住職とその弟、榎本武次郎氏も参加されたという。この二人は安養寺住職から吟行会開催を教えてもらった句友だと思われる。
このような事情から、それぞれの吟行会の参加者を確定するのは残念ながら困難である。

3、武蔵野探勝調査の再スタート

すでに、本ホームページ「武蔵野探勝を歩く」には、6回「寒鮒釣のゐる風景」、12回「古利根」、16回「浦安」、32回「六郷堤」、56回「近藤邸雛祭」、64回「全生病院」、68回「明ぼの楼」、78回「曽我の里」、79回「越ケ谷の梅見」、100回「鶴ヶ岡八幡宮」の9編を書いたが、いよいよ8月14日をもって残る91回の再調査をする。
そして、極力、虚子たちが吟行を行った同じ月、同じ場所に私も立ち、ホームページを更新していきたい。
その記念すべき第一回は、もちろん府中の欅並木としたい。

※写真は蚊杖とあふひの短冊。「前の人を追ひ越しもせず初詣」「初冬の中禅寺湖を来て見たり」

下総日常探勝8

俳句仲間の唐鎌良枝さんから御著書「悲しき飲んだくれ」をいただきました。
シベリア抑留者であるお父様を見つめなおした、非常に中身の濃い御本でした。
私もかつてシベリア抑留者の方々や北朝鮮の日本人妻救済活動を続けていらっしゃる方々からお話を伺ったり、交流させて頂いたりしましたので、あらためて心の奥底にずしりと来る御本でした。
読み進めていくうちに、今では頭の片隅に追いやられていた若き日のどうしようもなくやるせない感情が湧き上がってきました。
貴重な御本を賜り、本当に有難うございました。