下総日常探勝7

「沖」顧問の杉本光祥さんから俳人協会自註現代俳句シリーズ『杉本光祥集』をご恵送いただきました。
杉本さんは登山家でもあり、私も杉本さんの山の俳句を楽しみにしている一人です。
感銘した御句に付箋を入れていくと、瞬く間に付箋だらけになってしまいました。
松の木になりきつている油蟬
そそり立つ峰に雲湧く岩桔梗
焦点のピシッとあった極小世界から雄大な山岳美まで。思わず魅せられてしまいます。

武蔵野探勝を歩く12「古利根」

 一、春日部と俳句
 虚子一行は、昭和6年7月19日第12回武蔵野探勝会「古利根」(佐藤漾人記)で埼玉県春日部市を訪れている。昭和初期の粕壁(当時は粕壁と表記)は俳句が盛んであった。
 旧制粕壁中学校(現県立春日部高等学校)に関する資料をみると、当時の職員室には投句箱が置いてあり、作句しない者は職員会議にも出られない雰囲気であったという。
 粕壁中学の教員であった菊地烏江、小島十牛、飯塚雨村、石井白村らが句作の中心だった。石井白村は万葉集の英訳で名を馳せ、後に青山学院大学で教鞭をとるようになる。
 そうした熱気のこもる昭和4年に加藤健雄(楸邨)が同中学に赴任してくるのである。楸邨が同僚たちの感化を受け俳句の道に入るのはもはや時間の問題であった。昭和6年には俳句を始めたとされている。
 さて、虚子たち一行が春日部を訪れたのも昭和6年である。楸邨がこの吟行に参加していたのかと言えば、武蔵野探勝は、むしろ虚子が参加者を制限しており、俳句を始めたばかりの者が参加する余地はなかったと思われる。
 一方、当時の春日部での俳句界の雄は、何と言っても水原秋桜子である。
 今でも春日部駅近くの粕壁2-5-1に当時「粕壁医院」と称していた「安孫子医院」があり、秋桜子は月に二回診察をするためにここに通ってきていた。
 秋桜子来院の日は、「水原先生来院」の看板が掲げられ、粕壁の俳人たちのみならず浦和の長谷川かな女など数多くの俳人が集まってきていたという。そうした中の一人に楸邨がいたのである。

 二、「古利根」佐藤漾人記について
 漾人はこう記す。
 『行先が秋桜子さんの案内で、同君が常々我々に推賞して止まない古利根といふ』
 『先生は駅から直ぐ自動車で、御婦人連と一緒に、今日の休み場の新川に向はれた。他の多くの連中は秋桜子さんの「町の裏を直ぐ古利根が流れてゐる、いゝ景色ですよ」との言葉に惹かれ、皆秋桜子さんの後についてぞろぞろと町に這入つた。』
 虚子やご婦人たちが自動車で向かった句会場は、庄内古川を渡る新川橋の袂にある新川屋である。十年ほど前までは、息子さんが鰻屋「新川亭」として営業していたが、現在は残念ながら営業していない。
 一方の徒歩組の秋桜子たちはどういうルートをたどったのであろうか。
 『私達の通つたのは町の裏町らしかった。燕が巣かけてゐる豆腐屋があつたり、煙管を売る低い店(略)軒先に小さい絵馬をかけてある荒物屋などもあつた。(略)私達が町裏から直ぐこの古利根の上に横はつて居る新川橋を渡る時(略)次の川下のかす賀橋まで下つた時分』
 ここで漾人の書く『町裏から直ぐ』の『新川橋』という橋はない。これは句会場である新川橋からの勘違いで、実際は新町橋だと思われる。そうだとすると、新町橋を渡るためには、春日部駅から句会場とは反対方向の左へ進み、現在の主要地方道さいたま・春日部線に出る必要がある。
 駅から左に向かい、さいたま・春日部線へ出る角に煙草屋があるが、昭和40年代の住宅地図では山崎酒店となっているので、漾人の記録にある煙管屋ではないかもしれない。
 さいたま・春日部線に入ってすぐ左手に豆腐屋(中屋豆腐店)がある。荒物屋は先の煙草屋の斜向かいにあるが、これも当時は鍛冶屋だったそうで該当しない。
 町の人に聞くと田村金物店だろうという。しかし、田村金物店は位置的には本来見える場所にはなく、もし見えたとすると当時はほとんど家がなかったのであろう。
 実は、春日部駅を左手に進み、このさいたま・春日部線へ入る少し手前を右に曲がれば秋桜子が通ってきていた「安孫子医院」がある。その道を通らずに、わざわざ遠回りの街道を選んだ真の理由は分からないが、実際に歩いてみると、街道のほうは古い土蔵あり、時代がかった店や板塀ありで、米麦などの集散地であった粕壁の姿を色濃く残していることが分かる。秋桜子はそうした粕壁の顔を見せたかったのであろう。
 さて、秋桜子一行は新町橋を向こう岸に渡ってから川下へ歩いている。
 『私達は四方の景色に見とれながら堤の上の草径を三々伍々川下に下つて行った。』
 『五六丁下つてかす賀橋を過ぎ、又五六丁にして八幡橋があつた。私達はその橋の近くにある八幡宮の森に入つて憩ひ休んだ。』
 かす賀橋は現在の春日橋である。秋桜子たちは二つ目の八幡橋でこちら岸へ渡りなおして八幡神社で休んだ。おそらく7月の吟行であるから暑さに木陰を求めたのであろう。
 『境内には春日部松樹里と刻んだ碑が建つてゐた。』この碑は今でもある。
 『やがて頼んで置いた三台の自動車が来たので、私達はそれに分乗して、あの大凧揚の行事で名高い宝珠花に通ずる街道を十分ばかり走つて新川に来た。』
 句会場までの距離からいって、さすがに徒歩組も八幡神社からは車での移動となる。
 漾人の記述について正確を期せば、新川橋へ向かう道(現在の県道321号線)は、国の無形文化財である大凧まつりの宝珠花への道ではない。それはもう一本北側を走る県道320号線である。
 いずれにせよ秋桜子が安孫子医院にて診察をしていなければこの吟行は成立しなかった。そして、虚子が訪れた同じ年に楸邨が俳句に目覚めるなど、俳人たちが春日部の町に交差した不思議を今さらながら感じるのである。

「武蔵野探勝」との出合ひ