下総日常探勝5

 【西行 鼓ケ滝を聴いて】

二人の男の眼下に大河があった。大河に衣川が流れ込んでいた。
 「曾路、金鶏山が見えるな。あの山だけが往時のままじゃ。あの山だけがこの地の栄枯盛衰を見守ってきたのじゃ。」
 「はい。」曾路はつぶやくように応じた。
「一句なった。」
男は矢立を取り出すと、曾路が見守る中でさらさらと文字を書き始めた。
そこには、「いにしへの栄枯盛衰夏野哉」と書かれていた。
曾路は、目を見張ってため息をついた。
「いい句ですね。」
日が暮れかかっていた。今宵の宿は決まっていない。曾路は眼下を指さした。
「宗匠、あちらに薄煙が見えまする。今宵はあちらに泊めていただきましょう。」
二人は小高い丘を下り始めた。
やがて、薄煙の家が見え始めた。家というより小屋に近い粗末なものであった。
近づくと童の甲高い楽しそうな声が聞こえた。
「もうし。」
曾路が声をかけると、戸の隙間から老爺が顔を出した。
「わしらは旅の者じゃ。すまぬが、今宵一晩泊めてはくれぬか。」
「こんな杣屋でよろしければどうぞ。ただ、食べるものとて何もありませんぬが」
やがて、暗がりに囲炉裏の炎がゆらゆらと影を遊ばせるなかで、男たちは粥を啜った。
「ところで旅の御方。わしらはこんな草深い地で、毎日同じような日を送り、里の話に飢えておりますじゃ。なにか面白い話をしてもらえませぬか」
「そうでありましたか。それほど面白い話ではないが」と曾路が応じた。
「私たちは旅をしながら俳諧に暮らしています。」
老爺が尋ねた。「ほう。このような草深い地でどのような俳諧をなさるかの」
「さよう。宗匠、先ほどの発句をご披露下され。」
宗匠と呼ばれた男が、先ほどの紙を取り出す。
流麗な筆遣いで認められた『いにしへの栄枯盛衰夏野哉』という文字が見えた。
「なるほど、これが俳諧ですか。いにしへの栄枯盛衰、なるほど。これはずしりと来るお言葉。なるほどなるほど。」老爺は感銘を受けた熱い目で発句を眺めた。
「ただ、こう言っては何ですが、『夏野』が気になりますな。」
隣に座っていた宗匠と呼ばれた男の体がぐっと強張った。
「いやいや、ほんの年寄りのたわごとで。ただ、この草深さは夏野よりも『夏の草』の方がしっくりくると勝手に思っただけで。年寄りのたわごと。お気になさらないでください。」
すると囲炉裏の反対側に坐っていた老婆が急に口を出した。
「わしも思ったのじゃが、『いにしへの』がどうも気になるのじゃ。遠い過去のことじゃろ。夢の果て、とか夢の跡とか夢と読んだ方が、往時の人たちの思いが伝わるような気がしますじゃ。」
そこへ孫娘が甲高い声で言った。
「おじちゃん、おじちゃん。この字は何て読むの。」
曾路が答える。「『えいこせいすい』と読むのじゃ。」
「どういう意味。」
「むかし栄えていた人が、今は滅んでしまった、という意味じゃ」
「ふうん。昔強かった人が弱くなっちゃたの」
「まあ、そんなところじゃ。」
「ふうん。むかしの強者(つわもの)ね。そういうふうにいってくれないとあたいには分からない」
曾路は、ぽんと手を打つと矢立を取り出して何やら書き始めた。
『つはものどもが夢の跡夏の草』
老婆が畳みかけるように言い放った。
「ダメじゃダメじゃ。そんな俳諧では誰も分からん。上と下をひっくり返すのじゃ。」
老婆は曾良から矢立をひったくり、さらさらと書き始めた。
『夏の草つはものどもが夢の跡』
宗匠と呼ばれた男は目の前に繰り広げられた顛末に気が遠くなるように感じた。
「わしの言葉は『夏』しか残っとらん」と心の中で叫んだ。
額にはみっしりと汗が光っていた。

翌朝、男たちは杣屋を後にした。男たちの前に夏草が茂っていた。
宗匠と呼ばれた男は夏草を憎々しい目で見た。
やがて二人は歩き始めた。宗匠と呼ばれた男は、どこまでも夏草が続いている道がつくづく嫌になった。
「夏草はいやじゃ」と宗匠はつぶやいた。
矢立を取り出してさらさらと書き始めた。
『夏草いや兵どもが夢の跡』