武蔵野探勝を歩く32「六郷堤」

 一、はじめに

 虚子とその一門は、昭和五年八月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和十四年まで続けられ、その回数はちょうど百を数えた。
 武蔵野探勝第三十二回は、昭和八年三月五日に川崎側六郷堤にて行なわれた。ところが句会場の「安田運動場」の位置がなかなか特定できないでいた。
平成二十年五月十一日、川崎市教育委員会地名資料室の杉田浩氏から「安田グランドが判明した」とのご連絡を受け、ようやく筆を取ることができたのである。ここに杉田氏に心から御礼申し上げたい。

 二、第三十二回「六郷堤」松本たかし記

 松本たかしは記す。
『省線川崎駅下車。十時半の集合には約三十分の遅刻。駅のタクシーに今日の会場、安田運動場までと命じるとすぐに判つた。直き町を離れ堤へかかる。(略)堤の道は綺麗に舗装され、春の雨に濡れて滑らかに光つてゐた。右手は更に高く一間足らずの草堤が塞いでゐるので河は見えない。左手は川崎の町はづれの寂れた家並続き。五分と走らぬ間に自動車が下降し、堤下の広場へ着く。』
現在の川崎駅西口には、巨大なオフィスビルやマンションが建ち並んでいる。多摩川へ向かって行くと堀川町のT字路にぶつかる。通称大師道(府中街道)である。左へ少し進み幸町交番前の歩道橋の上に昇れば多摩川を見ることができる。
ここからほどなく河原町の二又に出る。そして二又の左側が河原町団地という市営住宅となっていて、ここに安田運動場があったというのが第一の仮説である。
 たかしは多摩川に向かったので進行方向は北である。そして右手が堤であれば川沿いに左折したことになる。
 当時の交通状況はわからないが、せいぜい平均時速は二十五ないし三十キロ程度であろうから、川崎駅から運動場まで二キロメートルほどの距離だと推定できる。
 ちなみに先ほどの河原町団地までは一・四キロである。
 たかしは記す。
『堤から岐れ下りた道の所に二本の柱だけの門があり、簡単な小舎が建つてゐるだけで、あとは点々と草の萌え出た、唯広い許りの運動場が雨を受けてゐた。』
『小舎の鍵の手になつた部屋に陣取つた面々は、めいめい持参の弁当をひろげた。』
 これらの描写によれば、堤から少し下りたところにある運動場には入口があり、それはあまり広くなさそうである。そして句会場となった小舎は鍵の手の形であったようだ。
 大日本帝国陸地測量部が大正十一年に測図した一万分の一地図「矢口」を見ると、ちょうど二又(現在の河原町団地前)のところに堤から降りる小道がありその先に空き地がある。これが先ほど記述した市営住宅の場所である。
 ところが、その先二又を右に七百メートルほど進んだ左側にも運動場らしき空地がある。
両者の違いは土地の形で、河原町団地の方はほぼ四角なのだがきっちりと区画されていない。後者の土地の形状は鍵の手の形なのだが、区画の線が人工的に整えられている。
そして、堤から戻るような形でわざわざ小道がつけられていていかにも入り口風である。
しかしながら、昭和三十三年の川崎明細地図にはどちらも跡形もなく消えてしまっている。
 たかしは記す。
『堤の草土手の上に佇つと目の下に大きく曲つた六郷川が現れた。川上も川下も共にひどく曲つてゐてこの玉川の流れは来し方行末はるかな姿はかくして見せない。(略)対岸のゴルフ場では此天気にもクラブを振つてゐる人がぼつぼつ見える。』
手掛かりは川の曲がり具合と対岸のゴルフ場だが、二つの地点からも同じような曲がり具合に見え、ゴルフ場も真反対の対岸にあるとは限らず決め手にならない。

三、杉田浩氏の発見

杉田氏によれば川崎市立御幸小学校の創立百周年記念誌『梅のかおり』(昭和四十八年)の中に『安田グランド』という名が出てくるというのである。
それは小向(地名)の変遷という概念図が明治時代、大正・昭和初期、昭和二十六年と三つ描かれている中の大正・昭和初期の略図に、ちょうど妙光寺のはす向かいの場所に『安田グランド』と書かれていた。
手書きの概念図なので、グランドの形は鍵の手ではなく四角に、また正確な位置にはないだろうが、先ほどの後者の位置、すなわち現在の戸手三丁目あるいは戸手四丁目の神奈川県住宅公社の団地付近にほぼ符合するのである。駅からの距離も約二・一キロメートルであり、この点も問題ない。
かくして同氏の発見によってほぼ安田運動場の位置は特定できたのである。
草萌に堤の風の強さかな 虚子
枯草も蓬も時に紛ふなり 蚊杖

「武蔵野探勝」との出合ひ