一、はじめに
虚子とその一門は、昭和5年8月から月一度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。
虚子一行は、昭和6年1月18日の第6回武蔵野探勝「寒鮒釣のゐる風景」(山口青邨記)で千葉県流山市を訪れている。
今回は、山口青邨の記述を追いながら、当時の吟行の模様を再構成してみたい。
二、「寒鮒釣のゐる風景」の概要
青邨は記す。
『今日は流山町あたりで、江戸川べりの寒鮒釣を見ようといふのである、一行十七人、降るかも知れないと懸念した空が晴れて、まアよかつたといふ天気。』
武蔵野探勝を解き明かすとき、まず頭を悩ませるのが参加者名である。この『十七人』という青邨の記述は参加者の確定に非常に役立った。ここでまず参加者を列記しておく。
高浜虚子、赤星水竹居、麻田椎花、市川東子房、大橋越央子、奥村霞人、柏崎夢香、上林煤六、菊地まさを、小林拓水、千葉富士子、
中村秀好、本田あふひ、松藤夏山、水原秋桜子、安田蚊杖、山口青邨の17人である。
『馬橋といふ駅で下車、そこから流山までは軽便が通じてゐる。見ると直ぐそこのホームにちやんとその軽便が横づけになつてゐる、何馬力か知らないが、ジエームス・ワツトが初めて試運転をしたあの騾馬見た(ママ)ようなベビーロコである、その騾馬の背中には
十八世紀型のマシユルームの煙突をつけて、それがまた勇ましくも真黒な煙を吐いてゐる
(略)みんなは手を拍つて喜んだのである』
この軽便は、馬橋・流山間を結ぶ現在でも単線の流山電鉄であり、虚子一行が乗った当時の客車については、同タイプのものが流山市運動公園の一角に保存されている。
さて、実際の「寒鮒釣のゐる風景」の一行の方は、にぎやかに流山に乗り込んできたのであったが、次第に様子がおかしくなってくる。寒鮒釣がいないのである。そこで付近の人に尋ねることになる。
『「この辺で寒鮒釣をやつてゐるところは、どこですか」之はちよつと間の抜けた質問であらう。「さうですね、ずつと下流の方と、それからずつと上流の方でさア」之は何と要領を得た答であらう』
実に微笑ましいやり取りである。
『寒鮒釣らしい何者も見えない。風がいやに冷たいだけである。(略)眼前の蘆の中には蘆刈の焚く焚火の煙が白く揚つてゐる。みんなはすつかり落着いてしまつて、蘆刈の句を作り始めた。寒鮒釣を見る吟行が蘆刈を見る吟行に変つたことも面白いことである。』
おおらかな場面展開である。これこそ吟行の楽しさであろう。
三、武蔵野探勝「寒鮒釣のゐる風景」の俳句
(中略)
四、吟行地の推定
本稿一番のポイントである吟行地の推定を行いたい。青邨の記述の中に幾つかの手掛かりがある。以下、列記する。
(イ)『そこで町にひつ返して「矢葉喜」という小料理屋に上る。(略)私がこの家の屋号を忘れないやうにと思つて手帳に書きつけてゐると、先生が側から「流山十番地」ですよと言はれたので、成程と思つてそれも書きつけた。』
(ロ)『又さつきの道を歩いて、堤防の段々を上つて、又それだけの段々を下りて川縁に出る。渡舟守の小屋がある。矢河原渡船場 一、大人二銭、小人一銭(略)芝居の渡船場そのままの光景である。』
(イ)の記述は一行の昼食風景である。
ここに出てくる小料理屋の「矢葉喜」は、流山市流山一丁目の旧流山街道沿いにあった。残念ながら終戦後に店を閉めてしまったものの、現在A氏ご夫妻の住居として建物は一部残っている。
(ロ)の記述の矢河原(やっからと読む)の渡船場はすでに廃止されている。江戸川で残っている渡船場は、「矢切の渡し」で有名な矢切を残すのみとなってしまった。
しかしながら、矢河原の渡船場の位置を確認することは出来る。江戸川沿いに渡船場跡の標識が立っている。
矢河原の渡しは、矢葉喜よりも上流側にある。ゆっくり歩いても5分とかからない距離である。
再び青邨の記述に戻る。
青邨によると「矢葉喜」の内部はこのようになっている。
『上り端に二階の階段が口を開いてゐる、階下が板場になつてゐて』
『この家は古いつくりではあるが大変きれいに掃除が行きとどいてゐた、廊下などつるつるすべるやうに光つてゐた(略)「富潤楼」といふ煤けた額がかかつて居た。』
さて、ここで「籐椅子会」の紹介をしなければならない。「ホトトギス」系の結社であり、故野村久雄氏を中心に武蔵野探勝の吟行地を一つ一つ訪ねていた。
昭和60年3月9日付の県紙「千葉日報」に、「籐椅子会」の流山訪問の記事が掲載されている。
「籐椅子会」が、流山にて吟行を行ったのは昭和60年1月27日だったが、「矢葉喜」にて興味深い発見をしている。
それは、青邨が手帳に記した「富潤楼」という額が、実は「富潤屋」の誤記であったというのである。
私(藤井稜雨)が、A氏宅を訪ねたのは平成14年2月のことである。
青邨の描写そのままに、塵一つない清掃の行き届いたお宅で、磨き上げられた廊下が光っていた。かつて店であった土間の中央に小さな生簀が残されていて、見事な鯉が悠々と泳いでいた。
二階に上げてもらった私は、早速、問題の「富潤屋」の額を拝見させていただいた。
カメラのシャッターを切るほどに感動を新たにしたが、それ以上に感激したのはA氏ご夫妻のお人柄であった。
初対面の私を親切に応対してくださったばかりか、二月の寒風の中をお見送りまでいただき、恐縮するばかりであった。私は、思わず深々と頭を下げた。そうして、私は今回知りえたことを一人でも多くの人に伝えたいと心底思った。
流山の町はすでに冬の黄昏時であった。