近藤邸流転
東京駅を中心に半径五十キロメートルの円を描いてみる。神奈川方面では茅ヶ崎市、埼玉方面では飯能市、東京都下では八王子市あたりであろう。ところが、東南の千葉県へ目を向けてみれば長柄町と言う聞きなれない町に行き当たる。公共交通機関を利用したとすると、はたしてどのように乗り継いでどの駅で下りればよいのかさえ分からない。
そんな田舎町に近藤邸はある。
所有者であった近藤氏は、貴族院議員の近藤滋弥男爵であり、日本郵船の創始者・近藤康平氏の後嗣である。
虚子と男爵は能を通しての知人であった。
昭和十年三月三日、当時「武蔵野探勝」と称して月に一度の吟行会を続けていた虚子は、門下の連衆とともに「広尾」の近藤邸を訪れている。
この吟行に参加した当時の三菱の地所部長であり、「虚子俳話録」の著者でもある赤星水竹居が「武蔵野探勝」第五十六回『近藤邸雛祭』として記録を残している。そこにはこう記されている。
『虚子先生やあふひさんがお能で別懇の間柄である、広尾の近藤男爵邸のお雛祭を見せて戴くことになつた。(略)一行が揃つたところで主人御夫婦が出て来て、慇懃に挨拶をされた。一行の方から虚子先生とあふひさんが皆を代表して答礼をされた。我々は其言葉につれて小学生の生徒の様にお行儀よく座つて、畳に手をついて一斉に頭を下げた。その連中の中にはお能の先生の松本長さんも居られた。』
ここに言う「あふひ」とは本田男爵夫人であり、当時の婦人俳句会の主要メンバーである。能を詠んだ「しぐるゝや灯待たるゝ能舞台」という句がある。また「松本長」は、明治の能名人と言われた宝生九郎の一番弟子であり、松本たかしの父親のことである。
さて、こうして第五十六回武蔵野探勝会は近藤邸の雛祭を句材に吟行会が催されたのであるが、水竹居の記録から近藤邸のたたずまいを見てみよう。
『主人がお能に堪能だけに玄関に能人形が飾ってあつた』『鏡の様にぴかぴか光る廊下や梯子段を滑りこけぬ様に足元を注意しながら皆が歩いて、二階の十畳二た間打通しの雛の座に案内された。』『階下の部屋から時々ピアノの音がもれ聞えた。』『お庭には沈丁花や紅白の梅などが咲いてをり、奥には御先代の御遺愛の其日庵を市ヶ谷の旧邸から移された床しき茶室や、天照大神と近藤家の祖先を祀つてある庭社などがあつた。』
この描写の中に『市ヶ谷の旧邸から移された』とあるように、この近藤邸は昭和五年に建築されているので、この吟行の時点では築五年ということになる。
設計は、伴仲信次氏二十四歳の力作とのことで、入母屋総檜造りの純和風建築で、かつ全室が京間取りの関西風造形である。
その近藤邸が、なぜ今は長柄町にあるのだろうか。
その後の近藤邸が、昭和二十年の敗戦に際し、スイス大使館として使われることになったところから流転がはじまる。
現在もスイス大使館は有栖川記念公園の北側、南麻布五丁目にある。まさにここが「広尾」の近藤邸の所在地であった。
幸いなことに、スイス政府へ譲渡する際に極力庭に手をいれないように約束をされたそうで、少なくとも庭については、往時の近藤邸の様子を残していると言う。
近藤邸は、長く大使館として使用されていたが、昭和五十三年十一月の建て替えに際して、スイス連邦共和国より千葉県長生郡「長柄ふる里村」に寄贈されることになる。
そして、実に数奇な運命をたどり、現在は「翆州」(これは「スイス」のもじりであろう)という名の料亭となっているのである。
千葉東金有料道路から千葉外房有料道路に乗り継ぎ、板倉インターチェンジで降りる。
ここから約七キロメートル、時間にして車で十五分といったところか。
田舎道を走り続けるといきなり近代的なビルディングが現れる。日本エアロビクスセンターである。
その広大な敷地の一角、落ち着いた森の中に「翠州」に変貌した近藤邸はある。
広尾からはるばる千葉の地へ移築されて四十八年、建てられてから数えれば九十六年である。
貴族の屋敷として、異国の大使を迎える屋敷として、そして今は団欒の客を迎える料亭として近藤邸は在った。
その流転の年月に思いを馳せたとき、近藤邸は果たして幸せだったのかどうか。これほど長きにわたり愛され続けてきたのだから幸せに違いない。そんな詮無い思いが私の脳裏をかすめるのである。