武蔵野探勝を歩く7「野焼など」

 虚子一行は、昭和6年2月25日の武蔵野探勝第7回「野焼など」(安田蚊杖記)において、板橋区志村の一里塚から北区浮間橋への吟行を行っている。
蚊杖は記す。『今は百姓の屋敷の中にとり入れられてある一里塚がある。街道を挟んだ大きな土饅頭で、その東側のものに榎の古木が曲がりくねって残つてゐる』
『トラックが後ろからけたたましい勢いで脅かす。その度ごとに町屋の障子や硝子がピリピリ踊る。安閑として歩いてもをられぬ』
『旧道と新道との追分けに出た時新道は俄かに坂となる。低く果てしない野原が霞んで見えて出る。』
93年の年月を経て、周辺の景色は格段に変わっただろうが、交通の烈しさは当時もかなりのものだったようだ。志村坂上の交差点に立つと、まさに国道十七号は緩い下りとなる。

『脚下にどんよりした水が見える。沼かナ、と思ふ。(略)歩きを移すに従つてそれが荒川の一部であることが分かつてきた。又その川の対岸はもう浮間の原であることにも気がつく。藁屋ばかりの村に入る―小豆沢といふ―(略)庚申塚があつてその前に居酒屋らしい店がある。』
小豆沢通りを交差点から200メートルもゆくと板橋中央総合病院角の歩道上に小さな石柱が立っているのに気づく。これが庚申塚の名残りかと思われる。
小豆沢通りの酒屋「角屋」を右に曲がるとH氏宅があり、その庭先に地蔵尊らしきものがあるのが外からも見える。H氏に伺うとこの地蔵尊は庚申塚の可能性はなく、やはり板橋中央総合病院角の石柱であろうとのことであった。

さて、この小豆沢通りから新河岸川への道は五本ほどあるが、虚子たちがどこを通ったのかは手がかりが少なすぎてわからない。
小豆沢公園脇から環八に出る小径、あるいは東京メガシティというマンションまで進んでから左折する、板橋区と北区の境界線をたどる道のどちらかだったのではないかと思う。

句会場について、蚊杖はこう記している。
『 春風や小屋の中にも貸ボート 雨圃子
 畦みちに貸ボート屋のみちしるべのあつたのを覚えてゐる。
 春浅し小屋にいそしむ船大工 早百合
 遊船でもあろうかと思つて見て過ぎる。
 今は煎餅屋であるが、夏になれば遊船稼業となる家の二階を借りた。新築で気持ちがよい。
 春水の茶屋の二階のあきにけり 雨圃子
 二階から暫く眺める。目の下は荒川である。
 春水や川上に浪たたみゆく 拓水
 対岸は浮間ヶ原である(略)浮間に渡る橋がある。その橋は
 工兵のかけたる橋や春の川 水竹居
(略)名を浮間の橋といふ。橋のたもとに商科大学の艇庫がある。』
『東の方には東北線の荒川の鉄橋が見えてゐる。辰巳にかけた方は部屋の都合で見えないが、工兵隊などが丘の上にある筈である(略)赤羽駅まで東の方へまつ直ぐの近道がある。』

 この句会場は、すでに籐椅子会の方々が確定させている。赤羽北2丁目の竹之内米店の店主・竹之内氏に当時の句会場を案内していただいているのである。籐椅子の訪問から20年も経っていたが、竹之内氏は大変お元気で、私(藤井稜雨)もまたご案内いただいた。
 赤羽北2丁目24のその場所は、川沿いであるにもかかわらず、今は川の見えない場所となっていた。そして、コミュニティパレス北赤羽というマンションに変貌していた。
竹之内氏は、建物はすっかり変わり、持ち主も変わり、道すらも変わってしまったとおっしゃった。「この辺はそれこそ毎日毎日変わっていきます」との言葉をかみしめるのみであった。