1、はじめに
20代の頃所属していた社会人山岳会のトレーニングコースは、恵比寿南の小さな公園から目黒の不動公園の往復だった。
途中の景色は多少覚えているもののコースルートは全く覚えていない。
恵比寿の公園で、夏山合宿の荷物を分担し、パッキングし、簡単な体操の後に目黒不動へ向けて走り出すのである。
数日後には重荷を背負って北アルプスに入山する。夏山合宿を歩きとおせるだろうか、剣沢での岩登りについて行けるだろうか、そんな不安を拭い去るかのように公園を飛び出していく。
楽しい思い出が乏しい山岳会ではあったが、それでもこの界隈を訪ねると青春時代の懐かしさが思い起こされる。
今回は、武蔵野探勝「目黒不動」を書こうと思い、目黒区立図書館にて資料を探したのだが、目ぼしいものが見つからなかった。
せいぜい昭和5年頃の目黒不動周辺の地図くらいであり、また実際に目黒不動に足を延ばしてみたが、やはり何か書こうという思いには至らなかった。
そもそも武蔵野探勝の1月の吟行は、これはという吟行地がない。
第6回の流山以降は、浜町公園、大宮氷川神社、新井薬師・哲学堂、大森海岸、目黒不動、新潟、明治神宮、鶴岡八幡宮である。あまりに有名な寺社ばかりで、吟行地を特定するという楽しみがないのである。
結局のところ、今回は森ケ崎海岸の「海苔舟数多」に落ち着いたのだった。
2、「海苔舟数多」について
昭和10年1月6日、虚子一行は第54回の武蔵野探勝として大森海岸を吟行した。
記録者の山口青邨は記す。「枯蘆原が風にかさかさ鳴つてゐる、一うねりの大堤防が海と陸とを劃つてゐる。この辺は埋立地だ。(略)蘆の中には池が幾つもある、池と言つても埋め残された水溜である。一つの池には一人の釣り人が綸を垂れてゐる、羽田の飛行場が近いものだから練習の飛行機がよく飛んでくる、飛行機が頭の上に飛んで来ても釣人は黙つてゐる。
枯蘆に飛行機低く飛んでをり 水竹居」
東京のなかでも大森の海岸は大きな変貌を遂げた所のひとつであろう。昭和のこの時代にすでに埋め立てが進み、わが国で最も古い空港である羽田飛行場が昭和6年に運用されている。
「こんな処に料理屋が何軒かある、私達の会場は大金と言つて、中でも一番大きい家である。或る家は蘆の中にかくれて鉱泉を沸かす煙を吐いてゐた(略)まだ松の内とて、料理屋もしもたやも松飾がしてある。
枯蘆に水溜りあり旅館あり 虚子」
大金は、今の住所でいうと大森南5-1-6にあった。明治10年に森ケ崎海岸の埋立てが始まり、明治32年に鉱泉が発見されてから太平洋戦争勃発の前まで、当地は一大歓楽地として急速に発展していく。虚子たちが訪れたのはその発展の途上だったことになる。
一方、興味深いのは、大金の近くにあった旅館寿々元である。『大田区の文化財第十九集』によれば、この寿々元は、大正13年春に共産党の解党決議がなされた「森ケ崎会議」が行われた場所だという。会議の出席者は、堺利彦、荒畑勝三、徳田球一、市川正一、佐野文夫、そして野坂参三とのこと。
また、白石實三『大東京遊覧地誌』(1932年)には「私たちが大金あたりで会をした頃は、自動車はないし、遠いので、帰りが大変だった。一風呂あびてから、海にのぞんだ楼上で、盃をあげると、房総の山々は、夕日のなかに煙つて、池上の丘の上に浮ぶ富士の姿がよかつたのをおぼえてゐる」としている。
では、虚子たちはどういう交通手段で森ケ崎へ来たのであろうか。
京浜急行バスの沿革を見ると、昭和3年(1928年11月24日)に梅森自動車(梅屋敷の梅と大森の森から得た名称であろう)が設立され、昭和8年(1933年6月1日)には、蒲田駅から森ケ崎への路線を走らせていたとされているので、おそらくこの乗合バスを利用したのであろう。
「堤防に上る、高い堤防の脚には波がばちやりばちやりと寄せてゐる。眼をやると海の面には一面に海苔粗朶が展開してゐる、それこそ枯蘆原が海の中にも出来たやうである、空が青くて、海が黒くて、海苔粗朶は白い、粗朶はつとづ沖の方までも続いてゐる。(略)『海がだんだん埋め立てられてゆくので、海苔場も昔ほどではなくなりましたよ。』とこつちの地理に明るい拓水君が云ふのである、然し私はそれにしても盛んなものだなアと思つたのである。
一湾を埋めた粗朶の彼方遥かに遥かに高いビルデングの集団が見える、―東京かも知れない、さう思ふ人もあつた。(略)
海苔粗朶の上に見ゆるは東京か 蚊杖」
今回の吟行の海苔舟数多の光景が見いだせただろうか。
「私達は一軒の海苔製造業者の家に立ち寄つた。女達が四五人で市場に出す海苔の束をこしらへてゐる処だ、十枚づつ数へて重ねて、額にあてて折りまげてしばつて一帖づつにこしらへるのである。『何故額にあてるのですか。』と誰かが訊いてゐる。『ホホホ何でもありませんね、ただかうすれば曲げよいもんですから。』神さんが笑つて返辞をしてゐる。(略)
家土産に海苔買ふことも森ケ崎 たけし」
今でも海苔を額に当てて束ねていれば、これは面白い景である。さて、どうだろう。