武蔵野探勝を歩く11「砂川村」

1、 はじめに
6月の「武蔵野探勝を歩く」は、立川市の「砂川村」を選んだ。
実は、武蔵野探勝100回の中で、調査が進まない吟行地が二つあり、それが第11回「砂川村」と第86回「柏山荘」なのである。柏はわが家から近いので何度も歩いたが、砂川の調査はしていなかった。ただ、私は中学・高校の4年間を国分寺市の五日市街道沿いのアパートに一人で暮らしていたので土地鑑はあった。
 また、6月の武蔵野探勝は、「砂川村」以外に第23回「三宝寺池」、第35回「牛久沼」、第47回「武蔵国分寺」、第59回「軍艦諷詠の記」(横須賀市)、第71回「豊島園」、第82回「さみだるる沼」(手賀沼)第94回「鵜の森」(千葉市)と7回行われており、砂川村以外は場所の特定が容易な所ばかりである。そこで、今回は「砂川村」を訪れることにした。

2、 本田あふひの記録から
 虚子一行は昭和6年6月17日に「砂川村」で吟行を行った。このときの記録者は本田あふひだが、場所の特定ができそうな記述がほとんどない。
『六月十七日、午前十一時に立川駅に集合することになつた。例に依り蚊杖さんの斡旋で、この日は砂川村の養蚕の模様を見るのが目的であつた。駅から乗合自動車一台を借切り、約二十分ばかりで、桜並木が道端に沢山突立つて居る、玉川上水の支流がその並木の下を流れて居る、如何にも武蔵野の町らしい一つの町に着いた。』
『丁度その自動車が止つた所は、殊に欅の大樹で取り囲まれて居る、門を這入ると広い広い庭のある、大きな藁葺家根の、一つの古い家の前であつた。』
『蚊杖さんは(略)その家の前を通り抜けて、これも大百姓と思はれる一つの家の前に立つた。』
『何処か休憩する場所を定めねばならぬと云ふので蚊杖さんと私とが三四軒交渉して、半町ばかり行つた処の一軒の茶店を借りることにした。』
といったような具合で、手掛かりらしいものがない。
 まず、立川駅から砂川村へ向かうとなれば、普通は芋窪街道を北上して五日市街道へ出る。砂川村は西側なので、五日市街道を西へ向かえば、天王橋で玉川上水と交差することになる。
天王橋の手前に残堀川が流れており、この周辺のことを『支流がその並木の下を流れて居る』と表現したのかも知れない。あるいは昭和初期には小さな水路が走っていたのであろうか。

3、 籐椅子会の調査から
 野村久雄会長のもと「籐椅子会」の三角優子氏が、昭和59年9月30日に調査を行っている。この調査によると、①『自動車が止つた処』は旧名主の砂川氏邸(砂川町3丁目10)である②虚子たちが養蚕の作業風景を見たのは堺邸(上砂町4丁目21)である③句会場の茶店は滝島屋(現在は竜泉寺駐車場)だとされている。
 そこで、私もまず砂川さんをお訪ねした。奥様は虚子のことや吟行のことは全くご存じなかったが、まさに隣家が滝嶋さんであることを教えて下さった。
 そこで早速訪ねて、滝嶋さんの御主人に話を伺うと、「滝島屋」は自分のところではなく、分家の滝嶋が飲食店を営業していた。ずいぶん前に店を閉めてしまい、現在は竜泉寺の駐車場になってしまっているが、ちょうど梅田酒店の手前にあったのだという。
 砂川邸から滝島屋までの距離は100メートルほどなので『半町ばかり行つた処』ともほぼ矛盾しない。
 砂川邸は現在でも堂々とした門があり、本田あふひの記述そのままのたたずまいである。そして、隣家が滝嶋本家であれば、分家の茶店「滝島屋」を紹介してもらい、交渉によって句会場を確保したことも自然な流れである。
 また、滝嶋さんのご主人には、堺さんについても砂川医院の手前に住んでいらっしゃることを教えていただいた。そこで堺さんを訪ねて確認したが、こちらも奥さんには全く分からないとのことであった。
 堺さんのお宅は、砂川邸からは若干離れているが、交渉役の安田蚊杖や本田あふひ以外の一行が五日市街道沿いを養蚕農家を見学しながら吟行していたことを考えれば、むしろやや離れた場所にあることの方が吟行として自然である。
 昭和6年当時の砂川村の街道筋には、おそらく欅大樹が豊富にあり、玉川上水の支流がこの近傍をかなり走っていたことは想像に難くない。いまでも街道のあちらこちらに欅などの大樹が散見されるのである。