虚子とその一門は、昭和5年8月から月1度の吟行を行い、それを「武蔵野探勝」と称した。この吟行会は昭和14年1月まで続けられ、その回数はちょうど100を数えた。その第79回『越ケ谷の梅見』は、昭和12年3月7日に越ケ谷市北越谷の浄光寺で行われた。
記録者の楠目橙黄子は記す。
『東武鉄道会社から一通の案内状が来た。見ると、来る三月七日当社沿線越ケ谷梅林に御曵杖の栄を賜りたい、との事である。』
今回の吟行は、これまでと異なり東武鉄道からの招待である。観光地として越ケ谷梅林を宣伝し、沿線開発につなげたいということが同社の方針だったとしても、「ホトトギス」誌に掲載されていた「武蔵野探勝」が人気を博してきた証左でもある。
一行は、『雷門駅の改札口へ行くと、会社の案内の方が幹事の蚊杖氏と一緒に受付けに控へてゐて私達にリボンの団体徽章と各種の案内記入りの袋を渡して呉れた。(略)然も東武鉄道から社員の羽鳥、羽六両氏が東道役として同車されたりしたので、(略)一同頗る悠々大に貴賓らしく車中に納まつたものである。』
蚊杖(ぶんじょう)氏とは、武蔵野探勝の企画、運営を担当する安田和重である。
『雷門を発して四十数分を費し、駅名の越ケ谷を一つ越して武州大沢といふ駅に下車した。』
武州大沢駅は、現在は「北越ケ谷駅」と改称し、越ケ谷駅から二つ目の駅である。
『梅林を貫く路を行くほどもなく浄光院の境内に這入る。』
入口に庚申塚や梅の里 白山
梅の寺青年の居り茶の給仕 雨意
現在は庚申塚は見当たらない。また、接待役の青年も東武鉄道社員である。
『そこへ一行に遅れて参著した水竹居、風生氏等と共に新翰長越央子氏が久しぶりに我々の前に其温容を現したので皆拍手して之を迎へた。』
水竹居は赤星陸治、後の三菱地所の会長、当時は専務だったと思われる。風生は言わずと知れた富安謙次、後の逓信次官であり、『若葉』主宰である。
越央子は、大橋八郎、前逓信次官である。岡田内閣の法制局長官を任じられていたが、二・二六事件によって総辞職となり、この吟行の1ヶ月前に、林内閣の内閣書記官長兼内閣調査局長官に新たに任命されたのであった。そのことから『新翰長』と冠されたと思われる。
『不動明王と書いた札を正面に打つてある本堂の前には、うす濁りの水を湛へた池がある。その池の向ふに古梅園と刻んだ碑が枝垂梅を前にして苔さびて建つてゐる。』
残念ながら、現在の浄光寺には不動明王の札や古梅園と刻んだ碑はもちろんのこと、池も無くなっている。
池のあり紅白の梅相うつり 花蓑
袖に散る薄紅梅をあはれと見 薊花
二句目の作者である山本薊花は、『風の道』同人会長だった故山本柊花氏の父上である。
青邨の船はいづこぞ枝垂梅 越央子
山口青邨は、このとき留学のために渡欧の身であった。
『境内ばかりでなく此寺の周囲一帯が梅林であつて、面積数十町歩に亘り、水戸の偕楽園を凌ぐといふのである。』
現在は、宮内庁埼玉鴨場の北側にある越ケ谷梅林公園に当時の面影をとどめており、毎年3月上旬に行われる梅まつりでは、2万平米の敷地に約300本の梅を楽しむことができる。北越谷駅から徒歩20分ほどの距離である。
梅の下皆耕して広きかな 凡秋
凡秋は、千葉大医学部の加賀谷勇之助法医学教授。今でも千葉大学に凡秋の散歩した凡秋谷や凡秋小径、そして句碑などが残っている。
『百姓家の庭に樹幹朽ち果てた老梅が横つてゐて、その傍に紙の幟が立ててあり「此雲竜梅数百年前先祖植付之梅」と稚拙な字で書いてある。此梅が梅林中一番古い樹であらうか。』
地に伏して朽ちたる梅の瑞枝かな 橙黄子
蓆織る雲竜梅のありどころ 椎花
静かなる梅なき家や梅の村 虚子
垣間見る丸帯売りや梅の里 あふひ
雲竜梅は、浄光寺後ろの地主の一人である黒田家のものとされるが、現在では残っていない。浄光寺周辺に何軒もの黒田家があるが、私(藤井稜雨)は、それがどの黒田家かは特定していない。
『梅林の道が尽きると元荒川の堤に出る。その堤の上に稲荷を祀る御堂があつて、椿の巨樹が真紅な花をぼたぼた堂裏の土に落としてゐた。』
折り折りて尚花多き宮椿 虚子
この稲荷堂は文教大学へ渡る橋の右手前にある。巨木はないが、椿は数本植えられている。
『此堤上の景色を眺めてゐると、駅の方から慌しく自転車を走らせて駅員がやつて来た。(略)越央子に電話がかかつたといふ知らせがあつて、間もなく迎への自動車に乗つて駅に向かつた越央子氏は再び私達の前に姿を見せなかったのである。』
越央子が呼び出された理由は分からないが、ある程度の推測はできる。
2月2日に林内閣が成立したものの、政権としては極めて不安定であった。そして、この吟行の24日後の3月31日には衆議院解散、翌4月1日が総選挙の公示だったことを考えれば、解散時期について閣内での協議がなされたと考えるのが自然であろう。
また傍証としてではあるが、当時衆議院議員であったと思われる武蔵野探勝常連の大橋杣男が、今回の越ケ谷吟行に参加した形跡がない。
さて、この武蔵野探勝「越ケ谷の梅見」から61年後の平成3年3月3日、「ホトトギス」系の結社「籐椅子会」が,浄光寺周辺で吟行を行っている。
その時の記録者である三角優子氏は記す。
『池はもうないが、古梅園の碑は今も残ってゐる。探勝会の折の虚子先生の御句といふ
寒けれどあの一むれも梅見客 虚子
の句碑が昭和50年3月11日、上原恵美さんによって建立されてゐる。こじんまりとした句碑の彫は浅い。しゃがみこんでよく見ないと句碑とは分からない。(略)浄光寺の大黒様が「虚子先生の句碑をもう少しちゃんとした所に置かなければと思ひます」と申訳なさそうに言はれたことを思ひ出しつつ帰路についた。』
現在の浄光寺には、上原氏建立の句碑と、それを数回り大きくしたもう一つの句碑との二つが建っている。
新たに建てた句碑が、『もう少しちゃんとした所に置かなければ』という大黒様の応えなのだろう。
籐椅子会の記録を思い起こしながら、私は感慨深く二つの句碑に見入ったのだった。